ヘルバルト『一般教育学』

はじめに

 教育学は、その目的を倫理学に、方法を心理学に求めるべきものだ。

 そう考えたヘルバルトは、その体系的な教育学への志向から、ドイツ近代教育学創始者の1人と見なされている。

 当時の倫理学や心理学の知見は、今からすればかなり時代遅れなところも多い。しかし教育学の体系化という観点からすれば、中々に野心的でまたよく考え抜かれたものと言っていいと思う。

 もっともヘルバルトを祖とするヘルバルト派は、その後デューイら新教育の論者たちにかなり手ひどく批判されて、今やほとんど歴史的遺物となってしまった感を免れない。

 その批判の中心は、ヘルバルト派は教育の究極目的を措定している、というものだった。

 しかし本書を読んでみると、そうした批判は必ずしも100%正しいわけではないのではないか、と思わされるところもある。

 そもそも教育には、単一の究極目的などはない。そうヘルバルトは言っている。そのことを織り込んだ上で、なお普遍的な教育とは何か、そう考えたのが、ヘルバルトだったのではないか。


1.一般教育学の必要性

 教育は、論者の立場に応じて論じ方がまったく異なるものだ。しかし教育によって何が可能になるのか、そして教育は何をすべきなのか、この問いについては、ある程度普遍的な答えを求める必要がある。ヘルバルトはまず、そのように言う

「教育によって一体何が可能であるか、何をどのようにして子どもたちと達成することができるか、ということをすべて、彼らは自分たちの経験からきめることができるだろうか。」

「私が問題にしたことは、何が正しいことであるか、教育という仕事がその性質から当然必要とするものは何であるか、もし必要な技術が現にないならそれをつくり出すために何をしなければならないか、ということについてであったし、今もただそれについてだけである。」


2.教育の方法としての心理学

 よく言われるように、ヘルバルトは教育の目的を倫理学から、方法を心理学から導出せよと言っている。

「諸科学のうちで教育者に必要とされる第一のものは、彼にとって決して完全な科学であるとはいえないが、人間活動のすべての可能性を先天的に描き出している心理学であるだろう。」


3.教授のない教育も、教育のない教授も認めない

 ヘルバルトの有名な言葉を紹介しておこう。

「私は、この際、教授のない教育などというものの存在を認めないしまた逆に、少なくともこの書物においては、教育しないいかなる教授もみとめない。」


4.教育の目的

 教育の目的は、単一ではあり得ない。そうヘルバルトは言う。しかしそうは言っても、根本はあるはずだ。それは、将来の成人にとって必要なことを教えることと、道徳性を磨くことである。

「教育の目的は〔任意〕の目的(教育者のではなく、まして少年のではなくて、将来の成人の)と〔道徳性〕の目的にわかれる。」


5.興味の多面性

 この目的を達成するために、教師は子どもたちの多面的興味を引き出す必要がある。そうヘルバルトは言う。

「われわれにとってここで問題となるのは、ある一定数の個々の目的(それをわれわれはどこでも前もって知ることばできない)ではなくて、成長しつつある人間の活動性一般である。」

 人生で起こるさまざまな出来事に対処するためには、多角的な視野や興味をしっかりと磨いておく必要がある。教師が活用すべきは、子どもたちのこうした多面的な興味である。つまり教育において最も重視されるべきものは何かと言えば

「それは〔中略〕個性をできるだけそこなわないでおくことである。」


6.個性と品性

 ところが子どもたちには、個性はあるが品性はない。そうヘルバルトは言う。

「子どもたちに欠けているもの、〔中略〕それは〔意志〕である。〔中略〕意志は決意される。この決意の様式が品性である。」

 自らの欲望を意志によってコントロールする力、その品性を磨くのが、教育の役割である。そこで重要なことは、個性を失わず、またこれを活用しながら、しっかりとした品性を育てることなのだ。それが、多面的な興味のバランスのとれた成長である。

「精神的生活の準備を直接に決定するものは、あらゆる側面にむかってひとしく拡大された興味の着実な内容である。」


7.専心から致思へ

 ではそのようなバランスのとれた成長は、どのようにして可能なのか。
 ここでヘルバルトは、有名な専心から致思へのプロセスについて論じる。

「まず一つの専心が、次に他の専心が続き、次いで致思においてそれらの結合がなされるべきである。」

 さまざまな専心が、反省されて互いにつながった知識として自らのものになる。要するに、興味から始まる探究は、単なる「やってみただけ」で終わるのではなく、次へ、そのまた次へとつながっていく、そのようなものとして展開される必要があるわけだ。

 このつながりを探知し導くことこそが、教育者の最高の能力・技術(教育的タクト)である。

「それを前もって感知することは、教育的技術にとって最高の宝である教育的タクトの本質的なものである。」

 ちなみにこの専心から致思へのプロセスを、ヘルバルトは4段階に分けて論じている。

 明瞭連合系統方法、の4段階だ。

 弟子のツィラーラインらによって、これがさらに5段階に発展させられ、5段階教授法として定式化されたのは有名だ。


8.品性の磨き方

 多面的興味の発展のさせ方は以上のプロセスをしっかり踏まえることだが、では次に品性はどうやって育成できるのだろうか。ヘルバルトは言う。

「低い欲望能力というものは、快、不快の感情に基いている。品性豊かな人間は、不快の感情の一部分を耐えるが、他の部分を斥ける。」

 欲求をコントロールする観念、これをヘルバルトは、実践的イデーと呼ぶ。このイデーをしっかり育てていこう。

 そのために彼はいくつかの方法を考える。

 たとえば、習慣的な失望をあまり経験させるな、とヘルバルトは言う。

「何か立派な仕事をなそうと欲しているところで力が役に立たぬ人びとは不幸である。そこに失望が生ずるが、それは陶冶の進行にとっては後向きである。この失望が習慣のようになると、それは品性を次第に損うことになる。」

 あるいは、早い時期からの品性陶冶を彼は勧める。

「あきらかに、品性陶冶は、それが早められ教育期間の中へ引き入れられるだけ一層確実な成果を獲得する。」

 また、悪友を避けつつも、多様な人たちと交わることはいいことだとも言う。

「人間性を早くからその多様な形態において認識してくることは、道徳的洞察の早くからの練習に役立つし、悪の危険が不意におそいかかっても、それをしっかりと防ぐことができるようになる。」

 今では教育学者の間でさえあまり読まれなくなってしまった本書だが、現代なお多くの示唆に富んだ名著だと私は思う。

(苫野一徳)


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