コメニウス『大教授学』

はじめに

 近代教育の父と称されるコメニウス。

 すべての人に、正しい知識を、どのように教えるか

 コメニウス以前にもこのテーマを考えた人はもちろんいただろうが、最も体系的にはじめて論じたのは、おそらく彼だった。

 どこまでも真摯に教授のあり方を考えたコメニウス。少し真面目すぎて、私にはおもしろみに欠けるところもある。しかし、ルソーより100年も前に、自然に沿った教育を行えと論じたことは、やはり教育史に残る画期的なことだっただろう。



1.永遠に対する準備としての教育

 プロテスタントの宗教家であったコメニウスからしてみれば、最も重要なことは、最後の審判神の国へ行くことにほかならない。

 だからこそ、現世において神の国にふさわしい者になろう。それを可能にするものこそ教育だ。

 コメニウスは、そのように本書を書き起こす。

 ではそのために現世において必要なことは何か。コメニウスは言う。

「それは、1,博識、2,道徳、3,宗教若しくは敬虔の三者となる。」

 そして言う。

「人間は神の似姿であるから、人は生来あらゆるものの知識を獲得するの能力を備えている」

 こうして、真理としての知識を授けることこそが教育の第一の目的となる。

「人間の境遇と樹木とは相類似していることが明かである。〔中略〕手入れをしないで放任すれば、ただ自然の成長をとげ、野生の実を結ぶのみである。」


2.すべての人に教育を

 コメニウスの教育論が画期的なのは、男女問わず、そして賢い者も愚鈍な者も、すべての人に教育を与えなければならないと主張した点だ。それはもちろん、キリスト教精神に基づいている。

「人間としてこの世に生まれたものは、総べて同一の目的を以て生まれている。人間となること、言い換えれば理性的動物、万物の霊長、造物主の似姿となること即ちこれである。」

「また人間の中、或者は生まれつき愚昧、愚鈍であるように見えるという事実も、何等これに反するものではない。〔中略〕人の素質が、遅鈍であり、薄弱であればある程、このような生まれつきの動物的な愚鈍、愚昧から解放されるために、より多くの援助を必要とする。」

「女性もまた神の似姿として形成せられ、来るべき世界の天国に於て、神の恩寵に与るべきものなのである。」

 とは言うものの、女性に与える書物は選べ、とコメニウスは言うのだが(笑)


3.自然に従った教授法

 本書後半では、ひたすら具体的な教授法が述べられる。
 
 その原理は、ひと言で「自然に従う」というものだ。 

「今や総べての事物を総べての人に教える技術の基準となる原理は、自然を教師として自然から借り来る以外に道がないことが明かになった。」

 そこで、何が「自然的」であるか、コメニウスは詳細に論じていく。たとえば以下のような感じだ。

第1の原理「自然は適当なる時を守る。」

第2の原理「自然は形式を与える前に、質料を準備する。」

第3の原理「自然はその働きを及ぼすために、適当な対象を選択する。或は少くとも最初に、その対象を自らに適合せしめるために、これに適当な処理を施す。」

第4の原理「自然はその働きを営むに当り、決して混乱することなく、その前進に当っては、或一点から次の一点へと、整然と進行をつづける。」

 このような感じで、第9の原理まで述べられる。


4.新しい学校像

 コメニウスは、教授法のみならず、教育環境についても興味深いことを述べている。

 たとえばこんな感じだ。

「学級そのものがまた子供にとって楽しい場所であって、内外共に子供の眼に対して魅惑的なものでなければならない。学校の内部に於ては、室は明るくて清潔にし、壁は絵画で飾られねばならない。」

「更に学校付属の庭園があって、学生は時々そこへ行って、木や花や植物を見て、眼を楽しますことができるようにしなければならない。」

「また勤勉な生徒を賞賛してこれにたとえ些細なものでも賞品を与える(誰にでも依怙贔屓なしに)ことによって、生徒の心に学問への情熱を燃やすことができる。」


5.実例から一般へ/直観から概念へ

 最後に、コメニウスと言えばこれ、という、彼が提唱した教授法の原理を紹介しよう。

 実例から一般へ直観から概念へ、といった定式がそれだ。まず具体的感覚的なものからはじめて、徐々に難しいもの、抽象的なものへと導いていくという方法だ。

「子供が先ず感覚的直観を修練し(というのは、これは最も容易なものであるから)、次に記憶力を、それから理解力を、而して最後に判断力を修練するように教育せられる場合。この場合には難易の順を追うて段階的に教授される。なぜならば、総べての知識は、感覚的直観から始まり、次に想像作用を媒介として記憶の領域にはいるからである。そして更に個々の事実を基礎として、普遍的なるものの理解が可能となる。而して最後に、理解したる事実に対する判断が行われ、かくて我々の知識は確乎たる基礎を持つ事となるのである。」


(苫野一徳)

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