ハイデガー『存在と時間』


はじめに

 20世紀最大の哲学者と称されるハイデガー。

 師フッサール現象学を継承し、フッサールが主として認識論に定位した問題を、存在論として探求した。

「ある」とは何か、存在とは何か。

 この問いはこれまで真剣に問われたことがない。私がこれを解明してやろう。

 そのような気概に満ちて本書は始まるが、結局は未完に終わった。

 ハイデガー最大の功績は、人間存在を実存としてとらえ、その本質を「気遣い」(関心)として示したところにある。

 われわれは、いつでも常に、わたしたちの「関心」に相関的に世界を認識している。

 この観点から彼が人間現存在を実存論的に分析したその手法は、実に見事だ。不安の本質観取も、きわめて鮮やかなものだ。

 しかし本書後半へと進むにしたがって、ハイデガーは徐々にそうした原理的な考察から離れていってしまう。

 わたしはそう考えているが、そのことも含めて、以下本書を紹介・解説していくことにしよう。


1.存在とはなにか

「存在への問いには、ただ答えが欠けているだけでなく、問いそのものさえ不透明で無方向である。」

 われわれは、ふだん気軽に、「○○がある」とか、「これは○○である」とかいっている。しかしこの「ある」とは、いったいどういうことなのか。

 まるで存在それ自体が自明のことであるかのようにいっているが、しかしこの存在とはそもそも何で「ある」のか。

 ハイデガーは本書でこのように問う。

 そしてこの問いに立ち向かう上で大切なことは、「イカナルオトギバナシモシナイ」ということだ。

 存在とは、たとえば「神」である、とか、目の前にあるそれ自身である、とかいってはならない。なぜならそれは、本当にそうであるかどうか、決して検証できない言い方であるからだ(目の前の事物それ自体も、本当に目の前に存在している通りに実在しているかどうかは分からない。デカルト以来、カント、フッサールへと受け継がれてきた考え方だ)。

 いかなる予断も捨て去って、「存在」を浮かび上がらせよ。

 しかしそんなことを、わたしたちはいったいどうすればできるのだろうか。


2.現存在分析

 そのためには、まず存在それ自体の前に、個々の存在者を問う必要がある。

 つまり、われわれが出会う、ペンやグラス、あるいは自然といった、具体的な存在者がどのように存在しているかを問う必要がある。
 
 しかし実はさらにその前に、存在者を問うている、わたしたち人間自身をわたしたちはまず問う必要がある。

 この存在を現に問うているわれわれ人間存在のことを、現存在と呼ぶことにしよう。
 
 この現存在は、いつもおのれ自身のことを問題にしている。このことを実存と呼ぶことにしよう。

「現存在がしかじかのありさまでそれに関わり合いうる存在そのもの、そして現存在がいつもなんらかのありさまで関わり合っている存在そのものを、われわれは、実存(Existenz)となづけることにする。」

 つまり現存在は実存するのだ。


3.現象学的方法

 こういうわけで、われわれは存在とは何かを問う前に、これを問うている現存在それ自身を分析することからはじめる必要がある。

 この分析は、現象学的方法によってしか行いえない。そうハイデガーはいう。

 現象学は、世界が客観的にどうなっているかを分析することができない以上、それがわれわれの確信としてどのように構造化されているかを記述する、という方法をとる(フッサール『イデーンⅠ』などのページ参照)。

 したがって現存在分析も、われわれはどのように実存を生きているかを、客観的な構造としてではなく、われわれ自身がいつでも確認できるような確信構造として示すものとなる。

 これをハイデガーは実存論的分析という。

「このはたらきをつうじて、現存在自身にそなわる存在了解に、存在の本来的な意味と、現存在自身の存在の根本的諸構造とが打ち明けられるのである。」


4.世界=内=存在

 このような方法に基づいて、ハイデガーは現存在をまず世界=内=存在として描き出す。

 ここで重要なことは、繰り返すが、人間が客観的にこのような存在である、ということではなく、われわれはわれわれ自身をこのような存在として理解している、ということだ。

 世界=内=存在には、次の三つの本質契機がある。

1.われわれはいつも世界の内に存在している(と確信している)。

2.世界の内に、自分と同じように存在している存在者たちがいる(と確信している)。

3.自分の世界の内を存在している(これを内=存在という。)

 1つずつ見ていくことにしよう。


5.世界の世界性

 世界=内=存在は、みずからが世界の内に存在していると確信している。

 しかしこの世界とはいったい何か。現象学的に(確信構造として)記述してみよう。

 それはまず、われわれの身の回りの世界、つまり環境世界のことだ。

 ではこの環境世界において、われわれはどのように存在者と出会うのか。

 配慮的に、である。

 われわれは、身の回りのものを、配慮的に、常に道具存在としてとらえている。つまりわれわれは、個々のものを、いつでも自分の関心に応じて認識しているのだ。

 ハンマーは、釘を打ちたいときは釘打ちとして認識される。戦いのときには武器として認識される。あるいはごっこ遊びにおいては、拳銃の代わりのものとして認識されることもあるだろう。

 わたしたちの認識は、本質的に「関心=気遣い」相関的なのである。


6.共同存在

 続いてハイデガーは、世界の内に自分と同じように現存在が存在している、というわれわれの確信を分析する。

 現存在はそもそも共同存在である。ハイデガーはそのようにいう。

 そしてここに、現存在の非本来性というのがあらわになってくるという。

 つまり、共同存在であるわれわれは、大衆のなかに「さしあたってたいていは」埋没していて、真におのれ自身であることができていない、というわけだ。

 この非本来性と本来性という区別があとあとあやしげな展開をみせるようになるのだが、ともかくは先に進もう。


7.内=存在

 続いて内=存在の分析である。

 ハイデガーは、自らの世界の内を生きる人間としての内=存在を、心境了解、の3つの契機として分析する。


心境(情状性、気分)

「気分がこわされたり、急に気分が変わったりすることがあるのは、実は現存在にいつもすでに気分があるからなのである。」
 
 われわれは、常に何らかの気分心境)のもとにある。

 それがなぜかは、究極的にはわからない。

「しかり、気分は襲ってくるものである。」

 しかし、われわれはたしかにたえず何らかの気分のもとにあり、実存論的には、この気分に相関的に世界をみているということができる。

 この「とにかくある」ということを、ハイデガーは被投性となづける。


了解

「心境には、いつもそれなりの了解が——それに抑えられているというありさまにおいてにせよ——含まれており、了解はまた、いつも気分をもっている。」

 心境と同根源的にあるのが、了解だ。

 われわれは常になんらかの気分のもとにあるが、この気分を、われわれはいつもなんらかの形で了解している。

 そしてこの了解が、次なる存在可能を示すことを可能にする。そうハイデガーはいう。

 おのれを了解することで、次にどのようなおのれをめざせばよいかが理解されるというのだ。

 これをハイデガーは投企という。

 
話、言語

「話(Rede)は、心境および了解と、実存論的には同根源的である。」

 さらに内=存在は、この気分とその了解とを、言葉にする存在である。

 われわれは、了解可能性の意義全体を、常に言葉にして示す存在なのだ。


8.本来性−非本来性

 さて、上のような内=存在は、実は「さしあたってたいていは」頽落している。

 つまり、気分を了解するときにも、これを話にするときにも、われわれは実は大衆の考えにすがり、世間話のなかに落ち込んでしまっているのだ。

 ハイデガーはそう主張する。

 これが非本来性だ。

 ハイデガーは、この頽落というあり方も、非本来性という言葉も、決して何かマイナスイメージで語っているわけではないという。

 しかし最後まで読み進めていくと、結局は、われわれはこの頽落を抜け出て本来的に実存しなければならないのだというメッセージへと、話がすりかえられていくのが読み取れる。

 それはつまり、人間には「本来的」な生き方があり、そう生きなければならないというメッセージだ。

 後で見るように、それはハイデガーにとっては、大衆の中に埋没するのではなく、先駆的決意性(死を覚悟しながら生きること)を持って生きることを意味している。

 それは確かに「立派」な生き方だ。

 しかし、何を「本来的」な生き方とするかは人それぞれ異なっているはずだ。にもかかわらず、先駆的決意性を持って生きることこそが「本来的」な生き方である、などというのは、「イカナルオトギバナシモシナイ」といったハイデガー自身の宣言に反して、彼自身の「信念」を、ただ表明しているにすぎないのではないか。


9.死の先駆

 死の本質を、ハイデガーは次のように(実存論的に)分析する。

「死とは、ひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない可能性である。」

 死の代理不可能性、そして、決して経験できないが必ず経験するという事実。

 これがわれわれに絶大な不安を抱かせる。そうハイデガーはいう。

 そしてそれゆえに、われわれはこの死をいつも隠蔽しようとしてしまう。

 大衆世間話は、実はそういうものなのだ。

 そこで、本来的な実存とは、この死を覚悟し、これを先駆することにある。そうハイデガーはいう。

 繰り返すが、これは精神的態度としては結構なことだ。

 いつも世間にまみれず、孤高の人として、死を覚え、本来的な自分になれ、というのは、なかなか魅力的な提言だ。

 しかし、人間は皆そのようにして生きなければならない、というのであれば、それは哲学ではなく1つのドグマだというほかない。

 ハイデガー自身は、これは決してドグマではない、というのだが、しかし次の言葉を読めば、やはりドグマというほかないだろう。

「しかし、ここで現存在の実存についておこなってきた存在論的解釈の背後には、本来的実存についての特定の存在的な見方、現存在の事実的な理想が控えているのではあるまいか。たしかに、その通りである。」

 このような考えが、本書後半に、本来的歴史性といった考えへとつながっていくことになる。

 それは、自らの運命を引き受ける共同運命のことである。

 安易にハイデガー哲学とナチズムを結びつけたくはないが、彼がナチズムに加担した理由の一端が、なんとなくわかるような気もする。

 本書の最後には、現存在は時間性によって可能になっているということが論じられる。そして、時間が実存論的にはどのようなものであるかが分析される。

 その分析もなかなかに見事なのだが、そこにはいつも、本来的将来だとか本来的現在だとかいう言葉がついてまわる。

 本書後半には、後期における転回(ケーレ)を十分予感させる叙述が目白押しなのだ(『技術への問い』『芸術作品の根源』などのページ参照)。


(苫野一徳)



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