フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』


はじめに


 カント哲学を継承したフィヒテは、ヘーゲルシェリングと並ぶドイツ観念論哲学の大物だ。

 本書がドイツ国民にもたらした影響は甚大だった。

 時はナポレオンによるプロイセン(ドイツ)占領時代。彼はドイツ民族の優秀さを謳い上げ、国民教育の重要性について熱弁を振るった。

 「国家」がいまだ十分に存在しなかった当時のドイツにおいて、フィヒテのような過剰な民族主義の称揚者が現れたことには、ある種の必然性があったといえるだろう。


1.人間の教育

 「新教育は人間そのものを作らなければならない」
 
 ルソーコンドルセなど、フィヒテに先駆ける思想家たちは、階級にとらわれない自由で平等な存在という新しい人間観を提示し、それに基づく教育を考えた(ルソー『エミール』コンドルセ『公教育の原理』のページ参照)



 フィヒテにも、もちろんその「匂い」はある。しかし彼の場合、事情は少し異なっている。



 これまでの教育(旧教育)は、人間を作ってこなかった。フィヒテはそう批判する。

 旧教育は、人間が「官能的愉悦」を愛することを前提とし、生徒の自由意志を基本にして行われてきた。

 しかし真の人間は、絶対不変の法則のもとにこれを認識し、いささかも「官能的愉悦」によらず、ただ真理が真理であるがゆえにこれを愛する人間でなければならない。新教育はこれを基礎とする。

 個々人の「自己愛」「利己心」「欲望」といったもの、これらを「要するに眼中におかぬのである。」

 このような真の人間たりうるのは、ドイツ人だけである。

 なぜか。それは、他のゲルマン民族と違って、ドイツ人は一つの言語を変わらず使い続けてきたからだ。言語が長い歴史を通して磨かれれば磨かれるほど、人間は「超感覚的部分」について思考できるようになるのだ。

 また真の人間たるドイツ人は、民族が永遠であることを知っている。自らを生かしているものが、民族であることを知っている。

 だから、「彼はこの特性の永遠の存続を欲せざるを得ない。何となれば彼にとってひとりこの特性のみが、彼のこの世の短き生命を既にこの世ながらに永遠の生命に伸べ得る解放の手段であるからである。〔中略〕そは彼の民族に対する彼の愛であって、まず第一に敬し信頼し、民族を喜び、その民族の中より生まれたることを矜りとするの心である。〔中略〕第二には、民族のために活動し、民族のために自己を犠牲にせんとするの個々とである。」

 こうしてフィヒテは、民族のための自己犠牲を説く。

 真の人間、すなわち、絶対的法則(神の法則)を、それが真理であるがゆえにのみ愛することのできる人間を作る。そしてそれができるのはドイツ国民だけである。

 『ドイツ国民に告ぐ』は、ほとんどこれのみが語られた講演だといっていい。


  
2.フィヒテの教育思想 
 
 今日においてもなお評価すべき点、あるいは役立つフィヒテの教育思想はあるだろうか。

 残念ながら、私の考えでは、彼の教育思想には真新しいところも評価すべきところもほとんどない(あえて言うなら、多くの人にペスタロッチの教育法の優れた点を知らしめたことくらいだろうか)。

 以下、フィヒテの教育思想ざっと見ていこう。

①自主的活動を通して、学ぶことそれ自体を楽しみにせよ

「生徒は好んで楽しんで学ぶものである。そして彼は力の緊張の続く限りは、学ぶこと以外には何物をも為そうとは欲せぬのである。何となれば生徒は学ぶことに於て自主的活動をなす、しかもそれに彼は直接に最高の楽しみを感ずるからである。〔中略〕吾人はこの純潔なる学問の愛を燃え立たしむべき手段を発見した。それは生徒の直接なる自主的活動を刺激して、これをすべての認識の基礎たらしめ、学ぶことはすべて自主的活動に依って学ばしめるということである。」

 強制的に、知識をただ記憶するためだけに記憶するということ、フィヒテはこれを強く批判する。自主的な活動を通して、学ぶことそれ自体が楽しみになるようでなければ、生きた知識は身につかない。

 しかし続けて、彼は次のように言う。

「従来の教育法では、その知識の獲得が将来有用なることや、その獲得に依らなければ衣食と名誉とを能わざることなどを説き、且つ直接その場の賞罰をも用いなければならなかったのである。——かくの如く認識は始めより既に官能的愉悦の従者として取り扱われていた。而してかかる教育は、その内容をもっては上に述べたる如く道義的なる考え方を発達せしむるの力なく、ただ生徒の心の外面に触るるに過ぎぬからして、時としては道徳的堕落をさえも植えつけ且つ助長し、そして教育の関心をこの堕落の関心と結びつけざるを得なくなったのである。」

 アメとムチによって「官能的愉悦」に訴えかける教育方法をフィヒテは批判する。これではただ報酬がほしくて学習をする、「道徳的に堕落した」子どもを作ってしまうに過ぎないからだ。

 フィヒテにとって大切なことは、「官能的愉悦」などは眼中におかず、真理がただ真理であるからこそこれを愛するという態度なのだ。そしてこのような愛を、子どもは自然に持っている。だからこそ、真理をただそれが真理であるからこそ愛するということ自体が、「楽しい活動」であるわけだ。

 

②子どもは他者を鏡として育つ

「自己以外の尺度に信頼して自己の価値を決定せんとするのがまた少年及び未丁年の特徴であって、この特徴あればこそ、人間的完成に向って生い育つ後進の少年に対するすべての訓戒及び教育は可能となるのである。〔中略〕すべての道義的教育の基礎は、まず児童にかかる衝動のあることを知り、これを確実に前提とするにある。」

 いわれてみればあたりまえだが、なかなか含蓄に富んだ言葉だ。

 子どもは、自分で自分のことを評価するのではなく、他人が自分をどうみるかという、他者の視線から自分というものを知っていく。

 そしてその際、子どもは他者から尊敬されたいという欲望をもつ。

 この尊敬されたいという衝動を活かして、子どもたちを実際に尊敬にたる人物へと育てていこう。

 フィヒテのこの言い方には、なかなか説得力がある。

 もっともフィヒテの場合、神を愛しその法則を愛する優秀なるドイツ国民という、「尊敬にたる人物」の絶対的なモデルがあるのだが。



(苫野一徳)

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