ニーチェ『道徳の系譜』

はじめに

 天才というのは、どんな人間にでもあるある人格を、極端なまでに極限化した、まったくバランスの悪い人間である場合が多い。

 しかしだからこそ、人の心を強く捉える力をもっている。

 ニーチェは、まったくそんなタイプの天才だ。

 ニーチェの自伝、『この人を見よ』では、目次に、「なぜ私はこんなにも頭がいいのか」「なぜ私はこんなにもいい本を書くのか」といった項目がずらりと並ぶ(ニーチェ『この人を見よ』のページ参照)。

 晩年のニーチェは、気が狂って、そして死んでしまった。

 だからこの失笑を禁じえない物言いも、見逃してあげることにしよう。

 生前のニーチェは、ほとんど誰にも理解されなかった。

 だからこそ、自分の中にどうしようもないほどに強力なルサンチマン(弱者の妬み、そねみ)があることを、十分に自覚していたに違いない。

 本書におけるルサンチマン分析が見事なまでに鮮やかなのは、まったく彼自身がルサンチマンの人であったからにほかならない。

 われわれは皆、多かれ少なかれルサンチマンを抱えながら生きている。

 しかしルサンチマンは、わたしたちの豊かな生をスポイルしてしまう。

 自らのルサンチマンにしっかり向き合い、これと上手に付き合いながら、またできるならこれを乗り越えて生きていくこと。

 ニーチェの思想は、わたしたちにそのための大きな気づきのきっかけを与えてくれる。


 本書は、このルサンチマンをキーワードに、「道徳の系譜」、つまり、今日「道徳的」と言われるものがどのように登場してきたのかを明らかにしようとする試みだ。

 ニーチェは言う。


 今日わたしたちは、「よい」とは利他的なことであり、「わるい」とは利己的なことであると思いこんでいる。

 しかしこれは、まったく顛倒した考え方なのだ。


 それはいったい、どういうことなのか?


1.第1論文「善と悪」「よいとわるい」

 ニーチェによれば、古代において、「よい」とは貴族的な強い人間が、自分の欲することを何でもできることを意味していた。

 それに対して、「わるい」は、弱者が情けなくも自分の欲することをなしえないことを意味していた。


 考えてみれば当然だろう、とニーチェは言う。わたしたちにとって、「よい」とは確かに、わたしたちが思うままに生きられることであるに違いないのだ。

 しかし今日、その価値観は顛倒してしまった。

 なぜか。ニーチェは言う。

「これはルサンチマンのゆえである。行動上のそれが禁じられているので、単に想像上の復讐によってのみその埋め合わせをつけようと、価値を逆転させてしまうのだ。「あの猛禽は『悪い』、従って、猛禽の反対物たる自分たちが『善い』」とする、仔羊の論理なのである。」

 人は本来、誰もが、強者として、
やりたいことを何でもできる人間でありたい思っている。

 しかし弱者にはそれができない。

 そこで、その満たされなさや妬みの気持ち(ルサンチマン)を埋め合わせるため、弱者たちは、「強者」は野蛮で利己的だから悪い、しかしその反対に、「弱者」はか弱く他人に害を及ぼさないから善い、という論理を作り上げたのだ。

 道徳の顛倒は、こうして起こることになったのだ。


2.第2論文「負い目」「良心の疚しさ」その他

 この顛倒した価値観を生み出し広めたのは、キリスト教である。ニーチェはそう言って、本書でキリスト教をボロクソにこきおろす。

 キリスト教は、「ルサンチマン」「負い目」「良心の疚しさ」の宗教である。ニーチェは言う。

「力なき者のルサンチマンが、外へ向けて放出されず内へ向けられるとき、それが『良心の疚しさ』となる。」

 ルサンチマンを抱える弱者は、自分の存在に「疚しさ」を覚える人間である。


 その最も根本には、「約束をなしうる」ことができないという「負い目」がある。

 強者とはどういう人間か。それは約束を守ることができる人間である。言い換えれば、借りたものを返すことができる人間である。

 正義の起源はここにあるとニーチェは言う。


 「借りを返す」ということ、返せるということ。ここに、人間の間における原初的な「正義」が生まれるのだ。

 しかし弱者は、その弱さゆえに、この「約束を守る」「借りを返す」といったことができない。

 そこで彼らは、そんな自分に「負い目」を感じ、「良心の疚しさ」を抱くようになる。

 これが行きつく所まで行くとどうなるか。

 ニーチェは言う。キリスト教における「原罪」という発想は、ここから生まれたのである、と。

「この『良心の疚しさ』が行き着くところまでいって、キリスト教は『原罪』の概念に考えいたった。」

 人間は生まれながらに「罪」を背負っている。キリスト教はそのように説く。これはまさに、自分の存在それ自体への「負い目」や「疚しさ」が生み出した、恐るべき自虐的な思想なのだ。


 しかしそれは、文字通り自虐的な苦しい思想だ。

 そこでキリスト教は、「天才的な弥縫策」を発明した。

「ここでキリスト教は天才的な弥縫策を発明した。神(債権者)が人間(債務者)のために自分を犠牲にする。愛から、債務者に対する愛から!これは精神的残忍における一種の意志錯乱である。」

 この弱く情けない自分たちを罪から救い出すため、神の子イエスは、自らを犠牲にしてくださったのだ!

 なんというご都合主義的思想か!ニーチェはそう言って、
キリスト教を激しく批判する。


3.第3論文 禁欲主義的理想は何を意味するか

 最後に、ニーチェは次のような謎めいたことを言う。

「禁欲主義とは、つきつめれば、『欲しないよりはまだしも無を欲する』ということを意味する。この意味がおわかりか?」

 これはいったい、どういう意味だろう?

 前者の、「欲しないよりは」ということから見てみよう。

 これは、「生きる意味が何もないよりは」ということだと考えていい。ニーチェは言う。


「何であれ一つの意味があるということは、何も意味がないよりはましである。」

 わたしたちは、生きる意味が欠けていることには耐えられない。だからわたしたちは、その意味がないよりは、それがどんなに辛い苦しいことであったとしても、意味を求める。

 そこで「禁欲主義的僧侶」たちは言う。

 生きる意味、この苦しみの理由、それはわたしたちの「原罪」にあるのだと。

 この究極の「自己否定」の思想は、それがどれほど恐ろしく苦しいものであったとしても、わたしたちに生きる理由を教えてくれる限りにおいて、ルサンチマン人間にとっての救いとなる。

 ニーチェは言う。


「「私は苦しんでいる、それは誰かの所為に違いない」――とすべての病める羊は考える。しかし彼の牧者、禁欲主義的僧職者は、彼に向かって言う、「羊よ、全くその通りだ!それは誰かの所為に違い内、だがお前自らこそその誰かなのだ、それはお前自らだけの所為なのだ、――お前自らだけの所為でお前はそうなっているのだ!」

 これが、「むしろ無を欲する」ということの意味だ。ここで言われる「無」をニーチェ自身の言葉で補うと、「生に対する嫌忌」のことだ。

 人は、「生きる意味が何も与えられないよりは(何も欲しないよりは)、むしろ自己否定という意味を欲する(むしろ無を欲する)」のだ。

 ニーチェはそう言って、この不健全な自己否定の道徳を再び顛倒することを試みた。

 その成果は、未完の大著『権力への意志』として結実することになる(ニーチェ『権力への意志』のページ参照)。
 
 

(苫野一徳)

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