ハーバーマス『事実性と妥当性』

 

はじめに

 本書のテーマは、民主主義理論と、民主主義社会における法の理論

 相変わらず、ハーバーマスの論述の仕方は実に衒学的だ。学者の誠実なのか、それともひけらかしなのか(笑)。

 言いたいことは実にシンプルなのだが、そこへもっていくまでに、膨大な知識を披瀝する。少しうんざりもするが、他のページにも書いたように、私はこのスタイルが嫌いではない。

 しかし本ページでは、ハーバーマスによる「余計な」知識の披瀝部分は、かなり大幅に削り取ろう。理性論の系譜や法理論の系譜、正義論の系譜など、とにかくあらゆる学問的話題を見事にまとめてくれていて、それだけで良質な学知の教科書としても読めるのだが、いかんせん長たらしい。

 彼が最も主張したい、そのポイントに焦点を合わせて、本書をじっくり散歩してみよう。さしあたって私は、本書におけるハーバーマスの理論を、高く評価すべきものと考えている。


1.すべてを討議理論の旗のもとへ

 ハーバーマスの論じ方は、たいてい、様々な学理を取り上げ検討、批判した上で自らの理論の優位性へと導いていく、という展開になっている。いわば、「すべてを討議理論の旗のもとへ」という感じ。

 たとえば、絶対に善なるものに従おうとするカント的「実践理性」や、絶対知へ到達しようとするヘーゲルの弁証法的理性を批判し、いまや時代は「コミュニケーション的理性」なのだ、と主張する。

「事実性と妥当性の緊張関係はコミュニケイション前提へと場を移すことになる。このコミュニケインョン前提は、おおよそは充足されるべき理想的内実を有するものであるが、すべての関係者がある言明の真理を主張・否定し、その妥当要求の正当化を試みたいと考えるときにはつねに、事実的に認めなければならない前提なのである。」

 絶対的真理などはない。一切はコミュニケーションを通して「妥当」とされるものである。この妥当性を求めるとき、コミュニケーションというものの存在は、前提とされるべき「事実」となる。

 本書のタイトルである「事実性」と「妥当性」の関係は、さしあたりそのように考えておけばよいだろう。

 すべてを討議理論の旗のもとへ。

 続いてハーバーマスは、ルーマンの法システム理論を批判する。次のような感じだ。

「それは、古典的社会理論にはなお残されていた法システムの規範的自己理解のいっさいの痕跡を解消してしまったことである。規範的行動期待を反事実的に維持された認知的期待として学習理論的に解釈することは、当為妥当性の義務論的次元を、したがって行為規範と命令の発語内的意味を消し去ってしまう。」

 なんでこんなぐじゃぐじゃした言い方しかできないのかな、と思ってしまうが……(笑)

 法のシステム論は、法を自律的なシステムと捉えるので、法を主体的に作っていこうとする人間の意志が無視される。したがって、法はどういうときに「正当」といいうるか、とか、法はどうやって多様な人々を規範によって結び合わせているか、といった問いが、問われなくなってしまう。

 法の規範的次元を問うことのできない法システム論は全然だめですよ、と、ハーバーマスは言っているのだ。法理論の可能性を、ハーバーマスは次のように言う。

「それは、コミュニケイション的行為の理論の方向を指し示している。」
 
 やはり、「すべてを討議理論の旗のもとへ」なのだ。

 ほかにもロールズドゥウォーキンの正義論を検討したり、ウェーバーパーソンズの法律論を検討したりしながら、ハーバーマスは自らの討議理論の優位性を小出し小出しに論じている。


2.民主主義原理

 そうして彼が提示する民主主義原理は、次のようになる。

「すべてのありうべき関与者が合理的討議への参加者として合意しうるであろう行為規範こそは、妥当である。」

 討議を通して妥当と認められたときにのみ、法はその妥当性を得る。そこで民主主義理論が次に考えるべき問題は、以下のようになる。

「それゆえ民主主義原理は、正統的な法制定手続きを規定しなければならない、というだけではなく、法媒体それ自体の産出までをも制御しなければならない。」

 法的手続きも、立法の過程も、すべてを徹頭徹尾討議の旗のもとに制御する。これがハーバーマスの基本的主張だ。

 当たり前だ、と思うのだが、ハーバーマスを読むと、どうやらこのことは当たり前とは見なされてこなかったらしい。

 確かにそうかも知れない。たとえばハーバーマスは、カントの次のような理論を紹介している。

「主観的行為自由の権利を規定するカントの法原理が意味するのは、法コードは、コミュニケイション的自由の諸要求から権利主体を切り離す主観的権利のかたちで構築されるべきだ、ということなのである。」
「こうしてカントの場合は、法が道徳に従属することになる。」

 カントは、自らの自由意志において絶対的義務に従う主体を要請した。したがってそこに、コミュニケーションを通した妥当要求の過程はない。そうハーバーマスは言うわけだ。


3.公共的な討議へ向けて

 さて、以上のように法(や権力)の妥当性が徹頭徹尾討議にあるのであれば、次の課題は、いかにしてこの討議をできるだけ公共的なものにしていくか、となる。

「それ自体として討議的に構造化された公共圏から、つまり権力が稀薄で、より草の根に近い、多元主義的な公共圏から流入してくるさまざまな刺激、すなわち主題、発言、情報、根拠を、この討議がうまくすくいあげ、敏感に反応し、引き受けることができる場合にのみ、代表により実施される討議は、すべての構成員の平等な参加という条件を満たすことができる。」

 それは、従来の自由主義共和主義の、いいところどりをしたような発想だ。そうハーバーマスは言う。

「自由主義の見解によれば、民主的過程はもっぱら利害の妥協という形式で実施される。〔中略〕これに対して、共和主義の見解によれば民主的意思形成は倫理的-政治的自己了解の形式で実施される。〔中略〕討議理論は、自由主義、共和主義、両陣営の要素を取り入れて、これらを審議と議決のための理想的手続きという概念に統合するのである。」

 単なる利害調整ではない、かと言って共有された善などの価値観を前提にするのでもない。両者あわせもって、とにかく討議しまくるのだ。

 しかしそれは、どうすれば可能になるのか。

 ハーバーマスが重視し期待するのは、彼が新しい市民社会=「公共圏」とよぶ領域だ。議会を中心とした制度的な政治コミュニティではなく、市民たちが自由に集まり作ったコミュニティ、それが公共圏である。

「公共圏は、行為、行為者、集団、団体などと同様の基本的な社会的現象である。しかしそれは、社会秩序に関連する通常の概念ではない。公共圏は、制度としてはもちろん、組織としても捉えられはしない。そもそもそれは、権限の分化や役割の分化、構成員資格の規制、等々を備えた規範構造体ではない。〔中略〕公共圏とはせいぜい、内容と態度決定、つまり意見についてのコミュニケイションのためのネットワークだと言いうるにすぎない。」

 このような公共圏は、多様な人たちの多様な声をかき集めることができる。実際、環境問題、移民問題、フェミニズム問題などは、もともとそうした市民的公共圏からわき上がった声だった。公共圏が政治に働きかける力を持つことで、できるだけ多くの人の多様な声を、社会設計に反映させていくことができるのだ。

「制度化されていない運動による政治は、政治システムの法治国家的に規整された権力循環をいわば支援するために、利益政治という因習的な道を放棄するのであって、こうした制度化されていない運動による政治は、自由主義的な公共圏においてのみ、ただフォーラムとしてジャーナリズム的正統化に役立つにすぎないかたちだけの公共圏におけるのとは違った方向で、刺激を与えるのである。」

 こうしてハーバーマスの実に長たらしい本著作は、結局次のようにまとめることができるだろう。

 法や権力の正当性(妥当性)は、ただ継続的な討議を通してのみ担保される。したがって、できるだけ開かれた討議の条件を高めていくことが課題となる。その最大の可能性は、今日の市民社会における公共圏にある。この公共圏を、できるだけ健全なものにしていこう。

 このことをこれでもかと言うくらい豊富な知識をもって論証したハーバーマスに、少しげんなりしながらも、私は大きな敬意を払いたいと思う。


(苫野一徳)

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