ホルクハイマー=アドルノ『啓蒙の弁証法』


はじめに

 フランクフルト大学社会研究研究所の学長を務めた2人は、共にユダヤ系ドイツ人。第二次大戦中はアメリカに亡命し、戦後帰国。いわゆるフランクフルト学派を代表する思想家だ。

 ハーバーマスもそうだが、フランクフルト学派の思想家たちは実に碩学だ。

 膨大な知識教養を、これでもかというくらいに縦横無尽に開示して読者を圧倒する。

 アドルノは作曲家でもあったが、そのためか、本書は知識がメロディーに乗って流れ去っていくような、そんな交響曲のような体裁になっているようにさえ思える。

 2人が訴えたかったこと、それは「啓蒙」の暴力性だった。ホロコーストの悲劇に至る「啓蒙」の暴力性が、本書ではさまざまな観点から告発されている。

 ボードリヤールなど、現代社会批判を繰り広げたポストモダン思想家たちに先駆ける洞察もまた、本書では鮮やかに描かれている。

 一級の思想書ではある。しかし個人的には、超一級の思想は、批判の果てに可能性の原理を提示すると考えている。

 彼らの告発・批判を受け止めた上で、いかに可能性の原理を提示しうるか。わたしたちは今、改めてそのように考えなければならないのではないか。


1.啓蒙の概念

 啓蒙とは、不可解で未知なものを、理解可能なものへとしていく合理化のプロセスである。

「神話は啓蒙へと移行し、自然はたんなる客体となる。」

 人はなぜ生まれてくるのか。
 なぜ世界は存在するのか。
 なぜ人は苦しむのか。

 理解不能なこうした問題を、人々はそれまで「神話」によって説明してきた。

 それに対して啓蒙は、一切に合理的な説明を試みようとする。自然は、不可解な存在ではなく、観察されその実態を解明されるべき「客体」(対象)となる。

 そのような啓蒙は、まず何よりも、一切を利用可能なものとして自らに仕えさせようと試みる。

「啓蒙が事物に対する態度は、独裁者が人間に対するのと変るところはない。独裁者が人間を識るのは、彼が人間を操作することができるかぎりである。」

 しかしここに、啓蒙のパラドックスがある。ホルクハイマー=アドルノはそのように言う。


「それとともに啓蒙は、しょせん逃れるべくもない神話へと逆転する。なぜなら神話はもともと、さまざまの形態をとって、現存するものの本質、つまり世界の循環や運命や支配を、真理の姿として映し出し、希望を断念していたからである。」


 啓蒙は、世界の一切は合理的に説明できると考える。しかし考えてみれば、それはつまり、世界の一切はあらかじめ定められたものとしてある、ということだ。

 一切を説明できるということは、結局、われわれもまた、その一切の内部において運命的に定められた存在であるということなのだ。

 ホルクハイマー=アドルノは、こうして希望の原理であったはずの啓蒙の仮面を引き剥がすのだ。


2.文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙

 以上の考えを基本に、2人は道徳の問題やユダヤ人問題等について考察を深めていく。

 ここでは、その一貫として論じられる文化産業についての考察を紹介しておこう。

 ボードリヤール『消費社会の神話と構造』に代表される社会批判思想に30年近くも先駆けて、ホルクハイマー=アドルノは次のように言っている。

「今日では文化がすべてに類似性という焼印を押す。映画・ラジオ・雑誌の類は一つのシステムを構成する。各部門が互いに調子を合せ、すべてが連関し合う。政治的に対立する陣営ですら自己宣伝の美的な様式は似たようなもので、ひとしく鋼鉄のようなリズムを謳歌している。大企業の華麗な本社ビルや商品展示場は、権威主義的な国であろうとなかろうと、ほとんど変りはしない。」

「レジャーの中では、人はプロダクションの提供する統一的企画に右へならえしないわけにいかない。」

 わたしたちは、自分が自由な存在だと思っている。しかし実は、啓蒙化された合理的社会の一元的価値の秩序に、好むと好まざるとにかかわらず従わされているにすぎないのだ。

「個々人の形式的な自由は保証されているが、誰一人、自分の考えることに公的に責任を負う必要はない。その代り誰でもが、社会統制のもっとも精妙な道具である教会やクラブや職域団体や、その他の人間関係のシステムの中に組みこまれていることに早くから慣れっこになっている。破滅したくない者は、こういった社会的装置の尺度による評価の下で、あまり軽く見られないように気を遣わなければならない。さもなければその人は生きて行く上で遅れをとり、ついには破滅せざるをえない。」

 本書が1943年に執筆されたものであることを考えると、2人の洞察には舌を巻く。


(苫野一徳)

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