デュルケーム『自殺論』

はじめに

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 社会学の古典中の古典。

 社会事象を実証的にとらえることで、その現状を把握する。そうすれば、どのような処方箋を講じればよいかがわかる。

 デュルケームの社会学には、そのような実践的関心がある。

 この関心自体は、とてもすばらしいものだ。

 しかし実のところ、事はそう簡単ではない。

 コントスペンサーのページでも書いたように、何をもって「実証的」とするかは、観点によって変わらざるを得ないからだ(コント『実証精神論』スペンサー『科学の起源』のページ参照)。そしてそもそも、われわれはどのような社会をめざすべきか、という、哲学的観点なくして社会を構想することはできない。

 しかしそのことを十分自覚したうえでなら、社会学は社会構想の際の実に有効な手立てとなる。

 デュルケームの社会分析はまったく見事というほかないが、しかしそれでも、時代の制約もあって、素朴実在論の誤りを犯しているようにわたしには見える。

 デュルケームは、「社会」を万人に共通の実在としてとらえる。しかし、フッサールのページなどでも書いたように、実のところ万人に共通の絶対的事実・絶対的実在といったものはあり得ず、それはあくまで、相互主観的に確信されたいわば共同確信である(フッサール『イデーン』のページなど参照)。

 したがって、「これこそが絶対的な社会の事実だ!」と主張してしまうと、また違った観点からの社会分析との対立が起こってしまうことになる。

 この問題をどう解き明かすかの道筋を示したのは、わたしの考えではフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』だが、しかしそれはさておき、以下では、そうは言ってもデュルケームのやはり見事な、社会分析の手法を堪能してみることにしたいと思う。


1.社会学的方法

「私の実践している社会学的方法は、一に帰して、社会的事実はものと同じように、いいかえれば、個人の外部にある実在と同じように研究されなければならない、という基本的原則の上に立てられている。」

 社会には社会的事実というものがあり、社会学はこれを物体を客観的に分析する科学のように分析する必要がある。

 デュルケームはそのようにいう。

 しかし先述したように、実は原理的にいって物体すら絶対客観的に分析することはできないし、社会的事象はなおのこと、これを絶対客観的に分析することはできない。

 その点、デュルケームの「科学」観は、同時代のウェーバーに比べれば、やや素朴にすぎる印象を免れない(ウェーバー『社会科学の社会政策にかかわる認識の「客観性」』のページ参照)。

 とはいえ、私たちの個人的な思い込みを廃して、どこまでも科学的・客観的に社会を分析しようとする姿勢それ自体は、きわめて真摯であると同時に、社会学の草創期ならではの情熱を感じさせるものでもある。


2.自殺の類型

 デュルケームは、まず精神状態や遺伝など、自殺の非社会的原因を検討し、これが自殺率の変動にはほとんど関係がないことを明らかにする。

 そして続けて、自殺の社会的原因を調べる。

 その結果取り出されたのが、次の有名な3つの類型だ。

 1.自己本位的自殺

 2.集団本位的自殺

 3.アノミー的自殺

 以下それぞれみていくことにしよう。


自己本位的自殺

 これは、個人主義の拡大に伴って、個人と社会との結びつきが弱まることで起こるものとされる。

 それまで個人を社会=役割につなぎとめていた関係がなくなることで、人は容易に自殺を選ぶことができるようになったのだ。

 ここでまず彼が検討するのは、宗教的要因だ。ユダヤ教には自殺者が比較的少ないことなどをあげ、その要因を仔細に検討したうえで、彼は次のような結論を出す。

(1)一般になぜ知識の発達と歩をあわせて自殺が増大するのか。それは、宗教社会が凝集力を失ってしまったからであり、知識を学んだからではない。

(2)なぜ一般に宗教が自殺にたいして抑止作用をおよぼすのか。それは、宗教思想の性質に由来するのではなく、宗教が一つの社会だからである。共同体が緊密に統合されているほど、自殺を抑止する力も強くなる。

 つまり自殺の抑止力は、社会の道徳的性格にではなく、社会の凝集力にある、とデュルケームはいうのだ。より緊密な社会ほど、自殺者は減る傾向にある。

 次に既婚者、未婚者などのケースも調べ、家族関係が緊密であるほうが自殺率が低いことも明らかにする。

 デュルケームの出した結論は、なかなか洞察に富んでいる。

「人の生がどのような価値をもっているかについて全体的な判断をくだしうる地位にあるのは、社会だけであり、個人にはその能力はない。自己本位主義は、自殺の副次的な要因ではなく、その発生原因なのである。」




集団本位的自殺

 自己本位的自殺とはまた逆に、人はあまりに社会に統合されすぎると、自殺をはかるようになる。そうデュルケームはいう。

「これらは自殺をする義務が課せられているからである。」

「忠臣蔵」を思い出すと、分かりやすいだろう。



アノミー的自殺

 最後の類型が、本書以来一般にもよく知られるようになった、「アノミー的自殺」だ。

「この種の自殺は、人びとの活動が無規制的になり、それによって彼らが苦悩を負わされているところから生じる。」

 ルソー『エミール』のページでもみたが、人間の不幸の源泉は、欲望と能力のギャップにある。

 現代社会は、このギャップをいつでもいやというほど思い知らされる社会だ。

 社会規範がうすれ、欲望は「なんでもあり」に突き進んでいく。

 そしてそれを叶えることができることはまれだ。

 果てしない欲望と、これがかなえられない苦悩の挟間に落ち込んで、自殺する現代人。デュルケームはこのアノミー的自殺こそ、現代の特徴だと主張する。


3.実践的な解決法

 以上のような分析の結果、デュルケームは、どうすれば自殺を抑止できるかというアイデアを提示する。

 要は、社会の結びつきや規範が失われているから、自殺が増えるのだ。

 そこでデュルケームは言う。

 いまやその結びつきは、政治的社会においてではなく、職業的社会において獲得されるべきだ。そして教育によって道徳を涵養し、また男女の婚姻が簡単に解消されないようにするべきだ、と。

 そのためにも、男女共同参画を推進せよ。

 といった具合に、いくつかのアイデアが示される。

 ちなみにデュルケームの甥のモースも、その人類学的・社会学的名著『贈与論』において、未開社会の分析を通して、その知見をいかに現代の問題に活かすことができるかと考えた(モース『贈与論』のページ参照)。

 研究のための研究、業績を積むための研究、といったものが量産されがちな今だからこそ、「真に社会に資する学問を!」という彼らの態度を、今一度思い起こしたい。

(苫野一徳)

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