デューイ『民主主義と教育』

はじめに

John Dewey 現代教育学不朽の名著とよばれる本書は、デューイ教育思想がもっとも体系的に論じられたものとされている。

 ところが本書は、日常の言葉でつづられているため一見簡単に思えるのだけれど、その内容を十全に理解するのはかなり厄介だ。

 その理由は、私の考えでは2つある。

 ひとつは、デューイの書き方に若干の問題があったということ。

 彼は直観的にはかなりすごいことを考えていたけれど、それを誰もがわかるような書き方で書くことができなかった。というよりも、誤解の余地をかなり与えるような書き方をしてしまった。

 もうひとつは、彼の提示した考え方が、まったく新しい、多くの人にとってなじみのないものだったこと。

 そのため、彼の思想はかなり誤解された形で受けとられ、いまもなお、たぶん多くの人が十全な理解を得られていないのではないかと思う。

 このページでは、そんなデューイの思想の核心を、できるだけわかりやすく紹介したいと思う。

 もっとも私は、彼の思想はまだ不徹底だと思っている。そのことも含めて、書いてみたい。


1.教育(の目的)とは何か

教育とは、

「経験の意味を増加させ、またその後の経験の進路を方向づける能力を高めるような、経験の再構築(reconstruction)あるいは再編成(reorganization)である。」

 有名な、「経験の再構成」としての教育、あるいは「成長」それ自体としての教育という、デューイの教育本質論である。

 デューイ以前の教育思想家たちは、教育の「絶対的目的」を設定していた。

 コメニウスにとっては、世界の知識体系をそのままに子どもたちに受容させることが目的だった(コメニウス『大教授学』のページ参照)。

 カントヘルバルトにとっては、絶対的に道徳的な人間に育てることが目的だった(カント『教育学講義』、ヘルバルト『一般教育学』のページ参照)。

 しかし、世界の知識体系など時代によって変わる。

 だとしたら、知識体系を受容するのではなく、むしろ新しい知識を探究することそれ自体が教育にとって重要なのではないか。

 道徳もまた、時代によって変わる。

 だとしたら、よりよい道徳をともに作っていく能力こそが、教育にとって重要なのではないか。

 つまり、教育には絶対的な究極目的などない

 それは、絶えざる経験の再構成、つまり成長それ自体が目的なのだ。

 デューイはこうして、それまでの教育の究極目的という考え方を相対化した。


2.経験は欲望=興味に相関的である

「我々の欲望(desires)、感情(emotions)、愛情(affections)は、我々の行為が我々をめぐる事物や人間の行為に結びつけられる、そのいろいろな結びつき方にほかならない。」
 
 教育が絶えざる経験の再構成にほかならないのであれば、われわれはどのように経験をするのか、それを明らかにしなければならない。

 デューイによれば、それはわれわれの欲望興味に応じてなされることになる。

 われわれの経験は、必ず何らかの欲望や興味に相関的になされているわけだ。だからこそ、教育もこの根本原理を中核にすえなければならない。

 それまでの教育の問題は、教材知識が、子どもの欲望や興味に何の関係もなく構成されたところにあった。そうデューイはいって批判する。

 教授法を、子どもたちの興味・関心にできるだけ沿う形で開発すること。それが、デューイの教授実践理論における画期的な考えだった。

 しかしそれは、子どもたちの興味・関心に無条件におもねるようなものではない。それはあくまでも、初発点なのだ。

 これは『経験と教育』で詳しく論じられることだが、教授法のポイントは、子どもたちの興味・関心を出発としながらも、その初発の興味や欲望を自力でかなえられるよう、一時的にみずからの奔放な欲望をおさえ、計画的に思考し、その過程において、有効な知識を身につけさせるところにある(デューイ『経験と教育』のページ参照)。

「教授と学習の方法の継続的改善への唯一の道は、思考を必要とし、助長し、そして試すような状況を中心におくことである。」

 いわば「死んだ知識」を詰め込まれ、結局学校で何を学んだのか、何が役に立ったのか、と多くの人は思っているだろう。

 自らの経験を通して学んだ知識は、「生きた知識」になる。

 この考えは、誰もが納得するものであると思う。

 このある種あたりまえのことを、デューイは、学校においても基礎にすえるべきだと考えたのだ。


3.デューイ教育思想の根本問題

 以上のように、私の考えでは、デューイの教育における功績は大きくいって2つある。

 ひとつは、教育の究極目的を相対化し、教育の目的とはたえざる成長それ自体だといったこと。

 もうひとつは、ある知識体系を子どもたちにただ受容させることは不可能であって、そこには必ず子どもたちの興味・関心が必要になることを明らかにしたこと。

 しかし以上2つが、また同時に、今日の大きな教育問題を生んでいる。

 ひとつは、確かに教育はたえざる成長それ自体かもしれないが、ではどのような「成長」であればわれわれはこれを「よい」といえるのか、その基準を、デューイがはっきりと明らかにしなかったことだ。

 デューイは、がんばっていろいろといっている。しかし結局、彼はこの指針を明示することができなかった。

 成長の指針がなければ、われわれは具体的にどのような教育を構想していけばいいのか、わからなくなる。これは、デューイがわれわれに残した難問だといえる。

 もうひとつは、確かに知識はわれわれの興味・関心に応じてしか得られないかも知れないし、経験の過程において身につくものであるだろうが、しかしそうは言っても、われわれが社会で生きていくには、興味にかかわりなく身につけるべき知識はある、という批判に対して、有効な反論をデューイが見出せなかった点だ。

 この問題が、いまもなお、「興味」か「詰め込み」か、という対立の原点になっている。

 ちなみに私は、これら上記の問題を、拙著『どのような教育が「よい」教育か』(講談社)等において一応解決することができたと思っている。

 興味のある方に、ご一読いただければ幸いです。


  (苫野一徳)

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