ルーマン『社会の教育システム』

はじめに

Niklas Luhmann 独自の社会システム理論を構築したルーマンによる、教育システムの分析。

 ルーマンと前期ウィトゲンシュタインは、極めてよく似たタイプの理論家だと私は思う。どちらも、徹頭徹尾独特の世界認識を微に入り細にわたって理論化した。あえて言うなら、サヴァン症候群的な天才なのだろう。

 要するに、世界とはこうなっているんだ、ということを、彼らはどこまでも細かく記述したわけだ。

 しかし以下で論じるように、私の考えでは、それはいわば壮大なフィクション的構築物であって、決して検証可能な世界認識ではない。ルーマンや前期ウィトゲンシュタインが今なお人気があるのは、その一種の冷徹なほどに荘厳なフィクション体系のゆえであって、それはいわば、日本の極めて質の高いアニメの世界観に没入するのに似ているのではないかと思う。

 私にもその感覚はよく分かる。たとえば私は空海の美しい世界観に惹かれてやまないが、その際、その世界の内側をもっと知りたい、もっと深くへ入り込みたい、という思いを抱く。

 しかし私は、空海の描く世界がフィクションであるということもまた自覚している。いわば私は、空海の創造した思想的芸術作品に耽溺しているのであって、それは「哲学をする」こととはまた別の喜びなのである。

 さて、ルーマンだが、彼の作り出した世界は、確かにとてもよくできている。舞台装置から演出に至るまで、極めて徹底的に考え抜かれた映画を見ているようである。

 しかし、フィクションはフィクションである。私はそう言わなければならないと思う。その理由については以下で述べることにするが、ともあれ私は、ルーマンの理論が壮大なフィクションである以上、これにすべてを依拠して教育を論じることは決してできないと言いたいと思う。

1.社会システム論の前提

 本書冒頭で、ルーマンは彼の理論の骨格を概説する。

①社会とは、すべての社会的作動だけから成り、その他一切を要素としない一個の社会システムである。
②社会という社会システムを再生産する(すなわち、自己が生産したものから生産していく)作動は、コミュニケーションである。
③近・現代社会のシステムは、機能ごとに分化しているという特徴をもつ。
④教育システムは、それらの機能システムの一つである。
⑤これらのシステムは、システムの内部で、自己と自己の環境とを区別しなければならない。
⑥システムは自己自身にとって不透明である。
⑦教育システムは、作動のレヴェルにおける自己組織化、及び意味論のレヴエルにおける自己組織化によって、意味のある教育のあり方といっても千差万別だという事態に対処する。
⑧社会システムは〔中略〕みずからが生み出したこの不確かさを、意味という媒質に形式を与えることによって受けとめる。

 いくつか難解な用語が出てきたが、以下本書の内容を紹介しながら、これらの意味について明らかにしていこう。



2.教育システムの自己組織化

 ルーマンによれば、われわれは人間が社会を作っていると思っているがそれは大きな間違いである。

「〈社会は人間たちから成る〉とは、もう言えない。未だにそう言うことは、生命体としての人間のミクロ物理学レヴェルにおける作動を、すべて社会的作動だと見ることになるからだ。」

 ルーマンの社会システム論は、生物学におけるオートポイエーシス理論を社会に応用したものだ。彼は、近現代においては教育や政治、経済などが機能分化し独自のシステムを形成しており、そしてそれらシステムそのものが、自律的に自己組織化するのだと主張した。したがってそこにおいて、われわれ人間の意志は主体たり得ず、ただシステムの自己組織化に取り込まれているに過ぎないものである。

 それゆえルーマンによれば、教育もまた人間が作るものと言うことはできない。

「いまや、教育の任務は、教育システム自身が決めるしかない。教育システムは、いわば自治へと追い込まれ、『自己組織化』の道を歩むしかなくなった。」



3.検証不可能な理論

 ここで早速、ルーマンの理論に対する原理的批判をしておきたい。

 社会は自己組織化し続けるシステムである、というのがルーマンの理論的前提だが、果たしてこれはほんとうだろうか。 私たちは一切を自律的で複雑なシステムによって決定されている、それゆえ私たちの意図で社会をどうこうできるものではない、というのが、単純化して言えばルーマンの基本イメージになるが、果たしてこれはほんとうなのだろうか。

 ひと言で言って、この言明は決して確かめられないものである。
 ルーマンのイメージは、一切は神によって決められているから自由意志などあり得ない、という、大昔の神学的議論以来、繰り返し現れてきたものの現代版だといっていい。一切は遺伝子によって決定されている、とか、一切はによって決定されている、とかいうものと、論理構造的には同じ発想である。

 しかし私たちは、そのことを決して確かめることなどできないのである。そのように認識している(考えている)のは、私たち人間自身に他ならないからだ。つまり私たちの認識は人間的認識を超越できないのであって、したがって人間を規定している絶対的動因を、私たちは認識することなどできないのである。

 この点については、すでにカントが鮮やかに解明してみせたものであり、フッサール現象学が徹底したものである(カントやフッサールのページを参照していただきたい)。ルーマンの理論は、それゆえ哲学的にはすでに過去のものと言うほかない。

 にもかかわらず、どうもルーマンは、彼の理論を絶対的真理のように描いているように私には見える。「社会はそもそもこうなっているんですよ」と、まるで神の視点から描くかのように論じているように思える。私の考えでは、これがルーマン理論の第一の欠陥である。

 そこで私たちはむしろ、ルーマンのような社会の捉え方を「絶対的真理」と捉えるのではなく、社会分析にとって有用たりうるかという観点から捉える必要がある。

 しかし私には、その観点から言っても、この理論はむしろ弊害さえもたらすものであるように思える。少なくとも教育についてはそう言える。そのことについては、後に論じていくことにしよう。

 しかしともかく、まずはルーマンによる社会の教育システム論を概観しておこう。


4.〈作動の閉鎖性〉と〈構造連結〉

 まずルーマン理論のキー概念となるこの2つの概念からみていこう。

 ルーマンによれば、システムはその内部で閉鎖的に自己組織化するものである。たとえば教育システムは教育システム内部で、外部の影響を受けることなく自分勝手に自分を作る。

 しかし同時に、あるシステムは時に他のシステムと呼応し合うことがある。たとえば教育システムと政治システムとが、時に関連し合うことがある。これをルーマンは、構造連結(ストラクチュラルカップリング)と呼ぶ。

 このような基本的な見方をもとに、ルーマンは教育システムがどのように自己組織化するか、そして他のシステムとどのように呼応し合うかを分析していく。


5.教育する意図

 まず、ルーマンは教育と社会化を区別する。
 つまり、教育とは教育する意図をもって行われる社会化であり、単なる社会化にはそのような意図はない。

 ではこの「教育する意図」とは何か。ルーマンは言う。それは、1.教師と生徒の非対称性を前提とし、2.善き意図をもって、3.相互行為を通して行われるものである。

 ここでいう「善き意図」とは、何か道徳的に正しいとか善いとかいうものではない。教育システムは価値など関係なくただ自律的に自己組織化していくものなので、何が道徳的に正しいかとか善いかとかいった問いはどうでもいい。したがってシステムからしてみれば、「善き意図」とはただ人々にとって善いと思われているに過ぎないものなのである。


6.パラドキシカルなコミュニケーション

 さて、しかしルーマンは次のように言う。

「〈善き意図〉は、全く異なる二人の子を産んだ。教育と選別である。」

 善き意図によって教育をしているはずなのに、教育システムは自ずと選別を含んでしまうのだ。それはある意味では、善き意図と相容れないはずのものなのに。ルーマンは言う。

「選別のネットワークは、みずから生み出した不確かさによって教育システムを覆っている。」

 要するに教育システムは、内部にそのようなパラドクスを抱え込んでいるわけだ。

 これをルーマンは、パラドキシカルなコミュニケーションと呼ぶ。善き意図によって伝達しようというものと、生徒に優劣をつけるものとの矛盾である。

「教育そのものは〈伝達可能〉/〈伝達不能〉というコードによってのみ評価されるが、これは、教育の成果を評価するための手がかりを与えない。そこで、この一次的コード化を補完するのが、伝達が成果を挙げたか否かを確認するための事後的手続き、すなわち〈より良い〉/〈より劣る〉のコードによる判断なのである。」


7.教育の媒質=子供/経歴

 続いてルーマンは、教育の媒質について論じていく。媒質とは、形式を必要とする意味内容と考えておけばいいだろう。ここでは、教育という形式を成り立たせるために必要な意味内容のことである。

 ルーマンによれば、それは子供経歴である。

「教育は、〈未完成な子供〉という意味論によって、いわばみずからのゲームを定義づける。したがって、教育学が成長途上の者と学校を念頭に置いて自己の任務を考える限り、教育学にとっては子供が教育の媒質なのである」

「子供だったことのない者が大人になることはありえないから、教育システムは――人生の特定の段階に限るとはいえ――やはり全員を完全にカヴァーすることを目指すのである。」

 この経歴は、知識という形式を持つことになる。教育は、知識を与えることで子供たちの経歴を形成していくというわけだ。

 この後ルーマンは、授業とは自己組織化する営みである、それは型と偶然によって進行するものである、といったことを述べていくのだが、以上を見てきて私たちに言えるのは、ルーマンの言っていることは、システム理論の枠組みなど必要としないあまりにも「当たり前」の話だということだ。

 教育は子供を必要とし経歴を生むということも、授業が型と偶然によって進行するということも、その他ここでは紹介しないがルーマンのあらゆる教育分析は、理論枠組みだけややこしく、まさに当たり前のことを言い続けているに過ぎない。

 それゆえ私は彼の理論の有効性を見出すことができないが、先に、そればかりかむしろ弊害さえある、と言ったのは、ルーマンのシステム理論による限り、私たちは教育を意図的に構想していくことができなくなってしまうからである。この点についてはまた後で述べることにしよう。


8.教育システムにおけるパラドクスの展開

 さて、教育、政治、経済、といった機能分化したそれぞれのシステムは、先にも述べたようにそれぞれ自律しているが、時に呼応し合うこともある。

 たとえば教育システムと経済システムは、雇用という点において呼応し合う。
 しかしシステムは基本的に自己組織化するものなので、こうした呼応を自らの内部に取り込もうとする。そしてそれは、システム内ではパラドクスとして展開されることになるとルーマンは言う。

 雇用の場合であれば、教育は、「専門知識」と「一般知識」、どちらに比重を置けばいいだろう、といった具合にパラドクス化する。

 学術システムとの呼応については、「真理を教える」ということと「学問的実効性」とのパラドクスという形で対処する。

「機能的分化の体制下で、それぞれの機能システムは自律化する反面、相互依存を強める。機能システムは、別の機能がすべて何処かで適切な水準で果たされるという前提をとらなければならないだけでなく、互いに特殊な仕方で依存し合う。したがって、それぞれのシステムの内部における意味づけは、パラドクスという形式をとる。」

 要するに、システムは誰が何と言おうとも、常に、自ら内部における自律的な自己組織化を遂行しているというわけだ。他のシステムがどう関わってこようが、私たちがどのような意志を持とうが、その力動を変えてしまうことはできないのだ。


9.ルーマン教育論批判

 こうして私たちは、私たちが何をどうこうしようが教育システムは自らを自己組織化する、という、一種の悲観論に陥ることになる。ルーマン自身、次のように言っている。

「そこで、結局のところつねに(システムの一体性)の問題に立ち戻らざるをえない自照は、こう自問しなければなるまい。要するに教育は良くなったのか、と。しかし、理念による一面的な照射によらずに良くなったかどうかを決めようとする者が、いるのだろう?」

 要するに、システムは私たちの価値的理念などおかまいなしに自己組織化するのだから、この理念が無意味であることが(ルーマンにとっては)明らかな以上、もはや教育のよしあしを論ずることなどできないというのである。

 そこで、ルーマンが何か教育構想について提案めいたことをできるとするなら、それは次のようになる。

「したがって、教育すべき若者を、未知のままであり続ける未来に対応できるようにするための教育学が、なければなるまい。」

 教育は不確かな未来への対応力を養うべきである。

 一見まっとうなことを言っているように思えるが、しかしまさにこれもまた、極めて当たり前の提言というほかないだろう。

 繰り返すが、社会システム理論という真新しい理論を引っさげて教育を分析したルーマンの分析は、結局のところ、誰もが言えることを技巧的な理論枠組みにおいて述べただけ、ということであったと私には思われる。

 しかしそれだけではない。その問題は、彼の理論に依るのでは、私たちは、いったいどのような教育が「よい」教育といいうるのか、そしてどのようにそうした教育を構想していくことができるのか、という問いに、答えることが決してできなくなってしまうという点にある。むしろ彼の理論においては、そうした問い自体がナンセンスである。

 しかし私たちはこう言わなければならない。
 ルーマンの理論は検証不可能な「物語」であって、これに依拠して教育の一切を語ることは完全な誤謬である。

 私の考えでは、教育とは何か、それはどうあれば「よい」といいうるか、そして私たちはどのように教育を構想していくことができるか、という問いは、ちゃんと明らかにすることができるものである。ルーマンに抗して、私たちはそのための「方法」を構築し、そしてしっかりと「答え」なければならない。


この「方法」と「答え」については、私の著書『どのような教育が「よい」教育か』(講談社)を参照していただければ幸いです。
(苫野一徳)


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