シュライエルマッハー『教育学講義』

はじめに

 1826年における、ベルリン大学での講義録。

 シュライエルマッハー直筆のものではなく、学生の講義録を編集したものということで、かなり冗長な感を免れない。

 とは言え、内容は原理から実践まできわめて多岐にわたり、その考察もとても深い。シュライエルマッハーの思想家としての力量が、いかんなく発揮されていると言っていいだろう。

 すべてを読み通すのにはかなりの忍耐が必要だが、時折珠玉の名言にも出会うことができる。

 以下、本書におけるシュライエルマッハーの主張のポイントを、できるだけ簡潔に紹介してみたい。


1.教育理論の基礎づけ

 教育理論とはいったい何か。シュライエルマッハーは、まずその根本的な問いのあり方を次のように言う。

「いったい古い世代は若い世代をどうしようとするのか?どのようにすれば活動が目的に、またどのようにすれば立派な結異に合致するだろうか?」

 その際、教育の目的は倫理学から導出されることになる。つまり教育理論は、倫理学と結びついた技術学なのである。

「若い世代に対する働きかけは実にこの倫理的課題の一部であり、したがって純粋に倫理的な対象である。〔中略〕だから教育理論は倫理学と緊密な関係をもっており、また教育理論は倫理学と結びついた技術学なのである。」



2.普遍的教育理論の不可能性と、事実的前提

「あらゆる時代とあらゆる場所に通じる理論を打ち立てることは可能なことなのであろうか?このような質問には否と答えなければならない。」

 普遍的な教育理論をめざそうとしていた近代教育学において、シュライエルマッハーのこの洞察は、デューイなど現代教育学に先駆けるものだったと言っていいだろう。

 しかしそれでもなお、教育の目的や理念をめぐる思弁的探究は続けなければならない。シュライエルマッハーはそのように言う。これもまた、きわめて重要な洞察だと私は思う。そして言う。

「教育の理論とは教育の思弁的原理を一定の所与の事実的基礎に通用したものにほかならない」

 何のためかの教育かを考え続けることを基礎としながら、事実的な諸条件においてその目的・理念を達成していくこと、その技術を考えだすこと。これが教育理論の本質だとシュライエルマッハーは言うわけだ。



3.何のための教育か

 では教育とは何のためにあるのだろうか。

 社会の側からみれば、それは保持改善のためである。シュライエルマッハーはそのように言う。

「教育は保持と改善という二つのものがなるべく調和するように、つまり、青少年が自分の眼の前にある現存のものの中に有能に入り込み、しかもなお、そこに生じる改善に有能に努力しながら参加できるように整えられなくてはならない」

 教育は、単なる社会の保持のためにあるのではない。これを改善していくためにも存在するのだ。

 したがって、「教育は個々人を、その所属するもっと大きな道徳的全体に似かようように形成すべきである」が、それと同時に、「特色豊かに完成された個体を提示すべきものである」



4.不平等の改善のために

 では社会はどのように改善されていくべきか。
 不平等をなくしていくように、である。

 というのも、不平等の存在は、社会を革命へと導き、それだけ秩序を不安定にしてしまうからである。

 そこでシュライエルマッハーは次のように言う。
「不平等は精神的原理によって克服されるであろうし、革命的な状態を惹き起こさないためには、不平等はなくなるべきである」

 教育は、そのための最も重要な方策である。



5.未来のためだけの教育批判

 シュライエルマッハーには、後のデューイに先駆ける洞察がたくさんある。次の主張もその1つだ

「未来に関係する生命活動は、同時に現在における満足を含んでいなければならない。それで、それ自体未来に関係する教育のすべての教育的瞬間は同時に現在まさにある状態のままの人間にとっての満足でもなければならない。」

 子どもたちは、いったい何のための今の学習かが分からなければ、学習意欲を失ってしまうものである。とはいえ、教育はそんな子どもたちに、どうしても教え込まなければならないものがある。そうした現在の満足を犠牲にしてもなお教育活動を正当化しうるものは何か。それは、それが同時に現在の満足を含んでいるという点にこそある。シュライエルマッハーはそのように言う。



6.助成と抑制

 シュライエルマッハー教育学の重要概念は、助成抑制である。

 助成とは、子どもたちの内的資質を助成すること、抑制とは外からの悪影響を抑制することである。

 シュライエルマッハーによれば、子どもたちの内的資質はすべて善なるものであって、抑制すべきものは何もない。抑制すべきは、ただただ外からの悪影響のみである。

「私たちは、個人の人格的独自性のうちには悪などありえない、ということを前提しなければならない。この独自性のうちには、それだけで絶対的にいって、抑制作用を必要とするようなものは何一つありえない。〔中略〕教育は独自性の発展を妨げるものに対してだけ抑制的に作用すればよいであろう。」

 このあたり、ロマン主義の思想家たるシュライエルマッハーらしい思想と言えるだろうと思う。



7.家庭教育と公共教育

「教育は本源的に家政に属するものである。」
「けれども、余りに低次元の観点をこえていくために、家庭も結局一つの社交的交り・一つの市民的団体・一つの宗教的共同社会に所属するものである」

 教育の私事性公共性については、公教育の草創期から、その対立関係について、激しい議論が続けられていた。シュライエルマッハーは、これら対立をできるだけ軽減し、互いに支え合う関係を見出そうとする。

 シュライエルマッハーのアイデアは、教育を2つの時期に分けて捉えるというものだ。

「第一期においては、教育は家政の一部である。第二期においては、新しい課題が生ずる。つまり、援助を要請するようないろいろな要求が現れる。親たちだけではこの課題を解決することはできないし、これらの諸要求を満たすことができない。この点、国家の関与が教育に及ぶのであり、また、国家は必要な助成作用をたずさえて加わってくるのである。」

 至極まっとうな考えだろうと思う。



8.教育活動の具体的方策

 以上、教育の原理的側面について論じたシュライエルマッハーは、続いて具体的な方策について論を進める。かいつまんで見てみよう。

 助成と抑制がシュライエルマッハー教育学の重要概念であることについては先にみた通りだが、シュライエルマッハーはここでより具体的に、教育的抑制がどのようになされるべきかを論じる。

「無意識の状態から起こるものは、身体的抑制作用を必要とする。けれども、意志が表示されている場合には、すべてものが倫理的抑制作用を要求する。そして最後に、意識が完全に発達し、情操が明確な形で現れるところでは、知的な抑制作用も終って、助成的活動が支配するのである。」

 外部からの悪影響を避けるための抑制活動は、まずは身体的抑制から始まり、続いて倫理的な抑制が加えられ、最後には自らの知的な抑制ができるよう務められる必要がある。

 この時重要なのは、である。

「必要な抑制は愛から発するものである。しかしこの因果関係は子どもたちにはまだ理解できない。したがって、彼らに生活上の抑制を加えながら、その中に愛が示されるのでなければならない。すなわち、抑制は愛のしるしを伴うのでなければならないのである。」

 こうして知的抑制の習慣が身に付けば、教育がなすべきは、ただただ助成活動だけであるということになる。

 この助成活動において、シュライエルマッハーは、国家があまり口出しをすべきではないと言う。何をどのように助成するかについて、あまりに固定的に決定してしまうべきではないのだと。

 それは学問の自由を保障することもまた意味している。シュライエルマッハーは言う。

「もし国家が学問に完全な自由を与え、たとえ学問が政府の現に示す方向に反する場合でも、政府はこれに抑圧を加えたり阻止したりせず、また、一定の形態をもった学問が政権を牛耳っている人びとのお気に召している場合でも、政府はこれに援助や保護を加えないならば、そして、国家が完全に公平であって――国家は実際にまったくそうでなければならないものなのだが――国家はただ学問の発展と伝統の繁栄とを護ることだけを考えるならば、そのときこそ国家は、自己自身および全体に対して、あらゆる内的な分裂を除去する手段や、教育に害を及ぼすあらゆる誤った関係を調整する原理を保持できるのである。」

 このほか、教授方法は常に生活に基づいたものでなければならないことが述べられたり(その際、ペスタロッチの方法は不十分であるという批判もなされる)、不平等をなくすために、優秀な子によるそうでない子に対する勉強支援を通した全体の学習の質向上のアイデアが述べられたり(ただしその際優秀な子がうぬぼれに陥らないよう注意せよと言う)、また、それぞれの学校のあり方はどうあるべきかとか教員養成はどうあるべきかとか、とにかくシュライエルマッハーは広範囲に教育を論じ尽くしている。

 珠玉の言葉が散りばめられた本書からは、現代なお多くの洞察を学び取ることができるだろうと私は思う。

(苫野一徳)



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