メルロー=ポンティ『知覚の現象学』




はじめに

 ドイツで生まれた現象学は、いち早くフランスに輸入された。

 レヴィナスと並んで、メルロー=ポンティはその最初期の第一人者だが、さすがはフランス人、本書はこちこちのドイツ風文体とは打って変わって、文学的修辞がところどころに散りばめられた著作となっている。

 とは言うものの、相変わらず長い。いくら記述の学だとは言え、現象学者たちはなぜこうも長々と書き連ねることを好むのだろう。
  
 しかも、これはフランス哲学の傾向でもあるようだが、一段落が時として数ページにも及ぶほどに長い。

 読みにくいといったらない。

 本書は知覚を現象学するものだが、重点は身体の現象学に置かれている。

 身体というのはとても不思議なもので、対象を対象化する当のものでありながら、また自らも対象化されるという、独特の構造をもっている。

 ここからメルロー=ポンティは独自の超越論的主観性論を繰り広げていくのだが、私の考えでは、フッサールを原理論として乗り越えようとした彼の野望に反して、むしろフッサールの哲学から退歩している。

 原理論としてはフッサールを超えられなかったが、しかしハイデガーと同様実存の意味をぐっと掴み込んだその哲学には、今も大きな魅力があると思う。


1.知覚は諸行為の前提である

「知覚は世界についての科学ではなく、それは一つの行為、一つのきっぱりとした態度決定でさえもなくて、一切の諸行為がそのうえに〔図として〕浮き出してくるための地なのであり、したがって一切の諸行為によってあらかじめ前提されているものである。」

 われわれは知覚を通して世界をみている。だから、この知覚こそが、一切の世界認識の前提にある。

 本ブログの他のページで何度もみてきたように、われわれはわれわれの知覚を超え出ることができないのだから、知覚の絶対的正しさを絶対的に知ることはできない。

 しかし、知覚それ自体の構造なら、現象学的に記述することができるはずだ。

 メルロー=ポンティの着眼点は、そこにある。


2.完全な還元は不可能

「還元の最も偉大な教訓とは、完全な還元は不可能だということである。」

 メルロー=ポンティは「序文」において、このように聞き捨てならないことを言う。

 彼によると、われわれの反省とはたえず流れているのだから、無時間的な絶対精神としての超越論的主観性のようなものはなく、したがってここに還元することは不可能だ、ということになる。

 しかし私の考えでは、ここでメルロー=ポンティはすでに現象学を誤解してしまっている。

 デリダのページでも書いたが(『声と現象』のページ参照)、フッサールは、絶対的な「いま」「ここ」という、実体としての超越論的主観性を論じたのではない。


 あくまでも、われわれの確信は「いま」「ここ」の私においてしか成立していないということを言っただけであって、この「私」が流れていようがいまいが、「いま」の自分と「明日」の自分が同じでないかもしれないと疑いうるとしても、どちらにせよそうなのだ。これは、少し考えてみればわかるはずだと思う。

 したがって、完全な還元は不可能などということは、現象学的還元の意味を理解しない発言と受け取るほかないわけだ。

 本書を読み進めていくと、そのことがよく理解されることと思う。



3.身体の両義性

「われわれが自分の実存を集中化することを可能にしている当のものが、また同時に、われわれがそれを絶対的に集中化するのを妨げている当のものでもあり、われわれの身体の無名性は、不可分の関係において自由でもあれば隷属でもあるのだ。」
 
 われわれは、身体に相関的に世界を構成している。

 身体感覚が変われば世界も変わって見えることを、われわれは知っているだろう。

 海に住む魚の世界と、空を飛ぶ鳥の世界と、地上を歩くわれわれの世界とは、おそらくまったく違うものとして認識されているに違いないのだ。

 このようにわれわれは自身の身体に相関的に世界を構成し認識しているのだが、しかしこの身体がまた同時に、客観的因果関係のなかにからめとられてしまうものでもある。

 脳がアドレナリンを出したから興奮するのであり、腹が減ったからお腹が鳴るのだ。

 このように、身体とは、自らの力能によって世界を構成している当のものでありながら、自らが因果性のなかに閉じ込められてしまったものという両義性をもっている。

 メルロー=ポンティはそのように言う。

 身体の現象学的記述としては、なかなか見事な本質観取であると思う。

 しかしここから、彼の議論は私の考えではあやしいものとなっていく。


4.身体の先構成

「意識とは、身体を媒介とした事物への存在である。」

 フッサールは、コギタチオ=超越論的主観性=意識作用を、必当然的明証の場としておいた。すべては意識体験における確信構造だと考えられたのである(フッサール『イデーン』のページ等参照)。

 しかしメルロー=ポンティは、むしろここに「身体」を置く。

 先にみたように、われわれは身体に相関的に世界を構成しているのであって、意識ですらこの身体があるからこそいまのような意識となっていると考えるわけだ。

 一見、もっともらしく思える。

 確かに、もしわれわれが異なった身体をもっていたら、意識も違ったあり方をしていたに違いない。

 しかしフッサール的にいえば、これこそ臆見だ。

 すべてを疑う、デカルト的懐疑を現象学はまずほどこすのだった。

 その過程で、すでに身体の実在すら括弧に入れられている。

 身体が実在しているかどうかすら、われわれは疑うことができるのだ。もしかしたらこれは錯覚かも知れない、そう、疑うことはできる。

 しかしそう疑っている意識作用は疑えないのであって、したがって身体の実在性すら、超越論的主観性における確信なのだ。

 身体が先で意識が後、というメルロー=ポンティの考えは、こうして、現象学的に言えば初歩的な間違いを犯していることになる。

 とは言え、「身体」が実存のもっとも重要な契機であることを浮き彫りにした、彼の成果は大きい。身体の先構成という誤りは犯したが、それでも、われわれがいかに身体に相関的に世界を構成しているかを記述したことは、現象学的記述として見事なものというべきだろう。

「物は私の身体の、そしてより一般的には私の実存の相関物であって、この場合、私の身体は、私の実存の安定した構造にほかならない。物はそれにたいする私の身体の手がかりのなかで構成されるのである。」

(苫野一徳)

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