ウォルツァー『政治と情念』

はじめに

Michael Walzer 理屈っぽい議論が多い政治理論の領域において、ウォルツァーのいわばプラグマティックな論の立て方は独自の魅力を持っている。

 私は本書を、優れた政治哲学的実践理論として捉えることができると考えている。

 透徹した現状認識とその問題解決のための洞察は、中々に研ぎすまされている。

 20年前の著書『正義の領分』と比べても、ずいぶんと思想が発展しているように思う。

 個々人の多様な生のあり方をあまり重視してこなかったリベラリズムに対して、ウォルツァーはさまざまな観点から修正を施していく。


1.本書の目的――リベラリズムの修正

「リベラリズムという教義は、もっと複雑でもっと多くの要素を内包するものに修正されていく必要がある。」

 自由で平等な、独立した個人からなる社会を構想するリベラリズム。しかしウォルツァーは、このリベラリズムは、特に次の4つの点において修正される必要があると言う。

「まず、それが不適切であるのは、不平等は非自発的なアソシエーションの内部とそれらの間に存在するが、その重要性をリベラルな理論は十分には認めていないからである。〔中略〕標準的なリベラリズムが不適切だというのはまた、リベラルな理論家が、多文化主義そして一般には市民社会のより問題をはらんだ特性について、問題として取り上げることがときにはあったにしても、最近まで、創造的な仕方では取り組んでこなかったからである。さらにそれが不適切である理由は、リベラルな理論が「討議」(deliberation)という名を好んで用いる思慮深い議論において、議論の参加者は、彼らが平等主義的な結論に達する場合にもなお、不平等の実際の経験や不平等に対する闘いについて理解がはかられることはめったにないからである。最後に、リベラリズムが不十分であるというのは、不平等を支えている社会構造や政治秩序に能動的に抗することは、リベラルが(それなりの理由があって)認めたがらず、またいだきたがらない熱情なしには不可能だからである。」

 このそれぞれについて、ウォルツァーは以下論じていく。



2.非自発的アソシエーション

 まずウォルツァーは次のように言う。

 われわれは自由で平等な独立した存在だとリベラリズムは言うが、現実問題として、われわれは次の4つの観点から、どうしても非独立的な存在たらざるを得ない。すなわち、1.家族的、2.文化的、3.政治的、4.道徳的、観点である。そして言う。

「私たちは、〈自発的でないアソシエーション〉を認識した後でなければ、それを修正することはできない。」

 われわれはどうしても、非自発的アソシエーションの一員たらざるを得ない。そしてそれが時に、われわれを拘束するものとなる。リベラリズムが十全なリベラリズムたりうるためには、こうした非自発的アソシエーションの問題をどうするかについて、真剣に取り組む必要がある。そうウォルツァーは言うわけだ。



3.解放モデルとエンパワメントモデル

 そこでウォルツァーは、「解放モデル」「エンパワメントモデル」の2つを提示する。

 解放モデルは、これまでにもしばしば指摘されてきたものだ。

「原則としてデモクラシーのどの市民も、n分の1よりも大きな権力をもつことはない。」

 しかしウォルツァーは言う。

「実際には、こうした権力の最大限の分割はけっして実現されたためしはなかった。社会的・経済的不平等が、デモクラシーの原理を破壊してしまうからである。一般的に、そしてたいていの場合正しくも言われているように、デモクラシーの見かけの背後で実際に支配するのは少数である。したがって、その見かけを見破ろうとする一連の新しい問いが生じる。」

 できるだけ対等な諸個人たりうるように、抑圧された人々を「解放」すること、これが解放モデルだ。

 しかしウォルツァーは言う。特に人種的差別に苦しむ人たちに対しては、このような解放モデルは現実的にうまく機能しない。彼らは、「その集団の成員であることによって不利益を被るのである。メンバーシップが不利益なのである。」

 そこでウォルツァーは言う。ここで必要なのが、「解放モデル」に加えた「エンパワメントモデル」である、と。

「このような場合に必要なのは、集団の力の強化(empowerment)という見方である。しかしこの見方は、少々の違和があるとしても解放およびシティズンシップ〔のアプローチ〕と両立しなければならず、またそれらと並行する仕方で位置づけられねばならない。」

 単に解放を叫ぶのではない。現実的な、物質的なエンパワーが必要なのだ。

「私たちは、私が「物的な資源を重視する多文化主義」(meat-and-potatoes multiculturalism)と呼ぶものを必要とするのであり、そこでは諸集団の物質的な力が、それら相互の尊重を強く要求するのである。」



4.文化的権利

 続いての問題は、次のように語られる。

「文化的権利を要求するその主張とは、それぞれの人種的・民族的・宗教的共同体は(さらに言うなら、政治的共同体やイデオロギー的共同体も)自分自身を再生産する権利をもっているというものである。それが意味するのは、自分たちの子供を育て、教育する権利である。」

 それぞれの文化集団は、自分たちの子どもを自分たちと同じように育てたいと願う。

 しかしそれは時に大きな問題となる。

 子どもたちの自由が、そのことで侵害される可能性があるからだ。

 その場合、リベラル・デモクラシーはある文化集団に介入してでも、子どもの自由を守るべきだとウォルツァーは説く。

「リベラル・デモクラシーの寛容は、たとえそれが最終的に、差異を認めない宗教とエスニシティに不寛容であるとしても、その代わりの選択肢よりも穏やかであり、屈辱を与えることも恐怖を与えることもより少ないのである。〔中略〕原理主義と排外主義はしばしば、人間の尊厳と生命身体の双方をはるかにないがしろにしてきたのである。」

 この点、ウォルツァーがこの20年前に書いた『正義の領分』での主張が修正されているように見える(ウォルツァー『正義の領分』のページ参照)



5.討議と・・・その他には何が?

 民主主義は討議に基づくべきものである、と言われる。ハーバーマスに代表される、討議デモクラシーの思想だ。

 しかしそれは現実的な考えと言えるのか?ウォルツァーはそのように問う。

 実際の民主主義の過程は、決して討議によっているわけではない。

「私のリストが明らかにするところでは、民主的な政治過程とはどこまでも非討議的なものである。」

 このリストとして、ウォルツァーは「政治教育」「ロビイ活動」「声明」「取引」「キャンペーン」「投票」「資金集め」などを挙げる。

 政治は決して、「討議」によって動くわけではないのだ。

「討議的デモクラシーが平等主義的な理論の一つであることは確かである。討議的デモクラシーは発言し討議する男女の平等を前提しており、そしてこの平等を出発点にして、平等主義的な決定を生み出し、それらを正当化する。〔中略〕けれども、こうしたことがすべて達成されるのはユートピア的な時空においてである。」

 そこでウォルツァーが重視するのが、「情念」である。政治は討議によってのみ動くのではない。むしろ人々の情念が政治を動かすのだ。


6.政治と情念

 しかしこの情念は、時として実に危険なものである。

「『いかなる偉大な事柄も熱狂なしに達成されたためしはない』と、ラルフ・ウォルドー・エマーソンは語った。この言明は経験的にも確かめられるものであり、それを示す証拠は事欠かない。不幸にも、いかなる恐るべき事柄も熱狂なしに成し遂げられたたためしはないというのも等しく真実であり、それを示す証拠も同様に事欠かない。」

 しかしそれでもなお、情念は政治を動かす。

「おそらく私がここで論じたいと思っていることは、私たちが生きる情念的な生のあり方をもっと認めて正統な世界に引き入れることに尽きる。」

 そして情念は、これまで現実に政治を動かしてきたし、これからも動かし続けるだろう。ウォルツァーは言う。

「いかなる政党もそれなしには富と権力の既成のヒエラルキーに立ち向かうことのできない条件、平等や国民解放を求める、解放や力の強化を求めるどのような運動もそれなしにはけっして成功しえない条件がある。それは、それらがヒエラルキーの下方にいる人々の緊密に結びついた、戦闘的な情念を喚起するという条件である。」

(苫野一徳)



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