ウェーバー『宗教社会学論選』

 

はじめに

 ウェーバーの大著『宗教社会学論集』から、訳者大塚久雄・生松敬三両氏の選によって、「序言」を含む4論文が収められている。

 宗教が生み出した、人間の「理念」「エートス」「倫理観」といったものが、どのように社会を作り上げてきたのかを考察した名著。

 マルクス主義によれば、社会は下部構造としての経済によって規定されている。しかしウェーバーは、上部構造に分類される宗教文化といったもの、そしてそうしたものが作り上げる人間の価値や倫理といったものもまた、人間社会を作る上で大きな役割を果たしていることを洞察し、論じ続けた。

 宗教社会学の嚆矢にして金字塔。


1.西洋の合理主義

「いったい、どのような諸事情の連鎖が存在したためた、他ならぬ西洋という地盤において、またそこにおいてのみ、普遍的な意義と妥当性をもつような発展傾向をとる文化的諸現象――少なくともわれわれはそう考えたがるのだが――が姿を現わすことになったのか」

 ウェーバーによれば、まず近代合理主義的「科学」は、西洋にしか生まれなかった。

「今日、われわれが「普遍妥当的」だと認めるような発展段階にまで到達している「科学」なるものは、西洋だけにしか存在しない。」

 「資本主義」も同様だ。

「近代西洋においてわれわれの生活を支配しつつあるもっとも運命的な力は、いうまでもなく資本主義であるが、この資本主義についても事情はまったく同様である。」

 いったいどのような「精神」「倫理観」「エートス」が、このような合理主義的思考を西洋において可能にしたのか。

 もっともここでいう「合理主義」に、ウェーバーは限定をつけている。

 後にレヴィ=ストロースが明らかにしたように、西洋的な「合理主義」は、いわば「合理主義」の一つのバージョンに過ぎない。

 たとえば呪術による医学といった、現代のわれわれから見ればあまりに「非合理的」な営みも、その文化においては十分な「合理性」を備えたものだ。西洋的合理主義だけが、最も洗練された優れた「合理主義」だというわけではない。(レヴィ=ストロース『野生の思考』のページ参照)

 しかしこの西洋的合理主義には、大きな特徴がある。「経済的合理主義」だ。

「経済的合理主義は、合理的な技術や合理的な法ばかりでなく、その成立にさいしては、特定の実践的・合理的な生活態度をとりうるような人間の能力や素質にも依存するところが大きかったからである。」

 禁欲して勤勉に。このプロテスタンティズムの倫理が、やがて富の蓄積を生み出し資本主義成立のドライバとなった。「プロ倫」で、ウェーバーはそう言っていた。

 このような経済的な合理主義こそ、西洋独自のものにほかならない。

 ではなぜ、それは西洋において起こったのか。



2.世界宗教の経済倫理

 そこでウェーバーは、それぞれの宗教によって人々が抱く実践的な「倫理観」について考察する。

「宗教の心理的なまたな詔関連のうちに根底をもつ行為への実践的起動力praktische Antriebe zum Handelnこそが問題とされるのである。」

 各宗教において、その倫理をつくる際の最も根本的な動機となったのは、いわれのない「苦しみ」から逃れる、というものだった。

 悪人が栄え、善人が苦悩する。

 それはおかしい、と、死後の「裁き」が持ち出される。輪廻転生が説かれる。メシアの王国が夢見られ、パラダイスについて語られる。


 このような考えが、やがてそれぞれの宗教の「理念」「世界像」を形成していく。そしてウェーバーは、次のように洞察する。

「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。つまり、「何から」wovonそして「何へ」wozu「救われる」ことを欲し、また――これを忘れてはならないが――「救われる」ことができるのか、その基準となるものこそが世界像だったのである。」

 人間は基本的には「利害」で動く。

 しかし長い目で見れば、宗教や文化によって形成された、「理念」「世界像」に基づいて動くのだ。

 そして西洋における「理念」や「世界像」こそが、近代合理主義を生み出す大きな契機となったのだ。

 もっとも、世界を何らかの形で合理的に説明しようという動機は、宗教の担い手たちが「知識人」であったなら、どの世界宗教においても起こっている。

「その背後には、つねに現実の世界で特殊的に「無意味」と感じられるものへのある態度決定と、したがってまた、この現世の組立てが全体としてはなんらかの意味ある「秩序界」であり、またありうるし、さらにあらねばならないという要求が秘められていたのである。ところで、本来の宗教的合理主義の中心的所産であるこうした要求は、徹頭徹尾、知識人層を担い手としていた。」

 「無意味」と感じられてしまう世界に「秩序」をもたらすことで、世界を「意味」あるものとすること。そのような試みが、各宗教社会の知識人層たちによって試みられた。

 ところがそう簡単に世界は合理化できるものではない。そのような限界の前に、「知識人層」があまりに大きな影響を持っていた社会では、宗教はむしろ、合理的説明を避け「瞑想」へと方向を変えていく。

 それがアジアだった。

「当然のことながら、これがいちばん強く現われたのは、現世とその「意味」をひたすら思索によって捉えようとするような上流知識人層にとくに強く規定されている宗教や宗教倫理のばあいであった。たとえば、アジアの、とりわけインドの世界宗教がそれである。そうした宗教すべてにとっては、瞑想、詳言すれば、瞑想によって与えられる単独者の深い至福の休息と不動の境地に入ること、これが人間にとって到達吋能な最高究極の宗教財となり、それ以外のいかなるかたちの宗教的境地もせいぜい相対的な価値しかもたない代用品と考えられた。」


 それに対して、西洋における宗教の担い手たちは、「市民」だった。そしてまさに、この「市民」は、西洋にしか存在しないものだったのだ。

「「市民」Bürgerという概念は西洋以外の地域ではどこにも存在せず、また「ブルジョアジー」という概念も近代西洋以外どこにも存在しなかったし、それと同様に階級としての「プロレタリアート」も存在しなかった。」

 この「市民」が、西洋的合理主義、すなわち経済的合理主義の担い手となった。

「彼らのばあいにはまさしく、技術的・経済的な合理主義への傾向に結びついて、きわめてさまざまな程度においてではあれ、倫理的・合理的な生活規制を呼びさます可能性がつねに存在しつづけたのである。」

 彼らこそが、自らは神の「道具」である、と言いうる存在だったのだ。禁欲しながらせっせと働く、という倫理観を、彼らは醸成していくことができたのだ。

「だからこそ、西洋においては、そこでもやはり熟知されていた瞑想的神秘論やオルギア的ないし無感動的なエクスタシスに対抗して、行動的禁欲がたえず優位を維持しつづけることになったのである。」

 階級に縛られない自由な経済活動を行っていた「市民」の存在が、瞑想オルギア(狂騒)へと逃避する傾向のあったアジア的宗教倫理との違いを生んだ。「市民」は、自らの経済活動を「禁欲」「勤勉」なものたらしめることを、その宗教倫理として醸成したのだ。

(苫野一徳)



Copyright(C) 2009 TOMANO Ittoku  All rights reserved.