カント『実践理性批判』

はじめに

 われわれは何を知りうるかを明らかにした『純粋理性批判』に続いて、われわれは何をなしうるかを明らかにした本書は、道徳哲学の金字塔だ。

 カントが成し遂げたかったことは、絶対確実な道徳法則があることを明らかにし、そしてわれわれは自らの意志によって、それがまさに絶対的法則であるがゆえに、それに従うことができる、ということだった。

 この考えはのちにヘーゲルによって徹底的に批判されることになるが、私も、このかなり「理想主義」に過ぎる道徳哲学は、中々現実性を持ち得ないものだろうと思う(ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』のページ参照)。

 しかしそれでも、人間は自らの自由な意志によって「道徳法則」に従うことができるのだ、と説いたカントの情熱は、ひしひしと伝わってくる。

 やはり、「道徳哲学」の大きな金字塔であることに違いはない。


1.本書の目的

「この批判の旨とするところは、実践的な純粋理性が存在するということを論証するにある。そしてそれによって、先験的自由を確立するにある。」

 われわれは、自らの自由な意志によって、絶対確実な道徳法則に従うことができる。冒頭でも述べたように、カントは本書でこのことを証明しようとする。


2.格律と実践的法則

「意志規定の条件の主観的原則は格律と呼ばれ、これが客観的に妥当する場合には実践的法則と呼ばれる。」

 格律とは、自分がこれこれのことを自らに課している、という、主観的な道徳原則のことだ。

 たとえば、人に会ったときはあいさつをする、とか、お年寄りには席を譲る、とかいうのがそれだ。

 それに対して実践的法則は、この格律が万人にとっても妥当するもののことをいう。

 つまり、万人がいついかなるときでも人に会ったときにあいさつをすることを格律としているのなら、それは実践的法則とよぶことができる。

 そしてそれは裏を返せば、「実践的法則」は万人が従わなければならない「べし」、つまり命法である、ということになる。



3.欲求原則は実践的法則にならない

「欲求能力の客観(実質)を意志の規定根拠として前提するような実践的原理は、すべて経験的原理であって、実践的法則にはなり得ない。」

 人にあいさつをすることで、自分が満足する。だからこれを「格律」にしよう。

 そう思うことはできる。

 しかしこれは「実践的法則」にはなりえない。

 「法則」は万人に妥当する客観的なものであって、欲求充足という経験的なものから取り出してはならないものであるからだ。


4.実践的法則は形式的


「理性的存在者が、彼の格律を普遍的な実践的法則と見なしてよいのは、彼がその格律を、実質に関してでなく形式に関してのみ、意志の規定根拠を含むような原理と見なし得る場合に限られる。」

 内容があるものは、すべて経験的だ。そして経験的なものは、客観的なものにはなりえない。

 人に優しくする、人を殺さない、親を敬う、等々の「格律」は、すべて経験的だ。

 内容があるものは、経験によって、つまり時と場合によって変わるのだ。

 だから実践的法則は形式的である。つまりいかなる内容をも包摂することの可能なものである。

 そしてこの「形式」を見出すことができるのは、純粋理性だけである。

 『純粋理性批判』でみたように、理性とはその究極形式(原因)にたどりつくまで推論をやめようとしない能力であるからだ。


5.定言命法

 そうして見出された「形式」が、次の有名な定言命法である。

「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。」


 わたしの「格律」が、万人にとっても必ず絶対的な法則といいうるかどうか。それを絶えず吟味し、そしてその法則に従って行為せよ。カントはそう主張する。


 哲学史的には、これはきわめて重要な意味を持っている。


 キリスト教が全盛だったそれまでの時代において、「道徳」は神によって定められたものだった。


 人は、それが神によって定められた法則であるという理由において、その道徳法則に従うことが求められていた。


 しかしカントはいう。わたしたちは、自らの自由意志によって道徳法則に従うべきだし、またそれは可能であるのだと。

 

6.神の要請

 しかしわたしたちは、本当に自らの自由意志によって、万人にとって絶対に正しいといいうることを意志し行いうるものだろうか。

 カントはここで、徳福一致のアポリアに行き当たる。

 カントの道徳哲学の「要請」によれば、わたしたちは自らの幸福を得られるかどうかなどということを考えることなく、ただただ道徳法則に従うのでなければならない。

 しかしその場合、「道徳的に生きる」ことが自らの幸福と結びつかないことも起こってしまう。

 そんなことがあっていいのだろうか。

 そこでカントは考えた。

「幸福の可能性を問題にするとき、神の実在が要請されることになる。」

 『純粋理性批判』においては、われわれは神の実在という「形而上学」的問いには決して答えることができない、と見事な「証明」をしてみせたカントだったが、ここへきて、しかし神の実在は「要請」されると主張するのだ。

 神が、道徳法則に従うわれわれ人間を必ず幸福にしてくれる。

 そういうわけだ。

 気持ちは分かる。しかしさすがにこれは、論理の飛躍といわざるを得ない。

 わたしの考えでは、カントの道徳哲学は、その非現実性、そして神の要請という論理の飛躍の2つの理由によって、大きな欠陥を抱え込んでいる。

 しかしそれでも、「道徳」「よき生き方」を自らの意志によって目指しうる、そのような人間の姿を生き生きと描き出した彼の功績はきわめて大きい。

 後にヘーゲルが、このカント道徳哲学の問題を止揚し、徹底的に考え抜かれた道徳哲学を打ち立てる。そしておそらく、その哲学こそが、これまでに人類が到達し得た最高度のものであるだろうと私は考えている(ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』のページ参照)。

(苫野一徳)

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