ハイデガー『芸術作品の根源』

はじめに

 後期ハイデガーを代表する作品の1つ。

「芸術とは真理の生成である。」

 いかにも形而上学的な芸術論が展開されている。

 「大地」「世界」「空け開け」といった独特の概念をもって芸術を論じるその表現力は、確かに一級品と言うほかない。

 芸術は、なるほど、これがこの世界だったのか、という、いわばこの世の「真理性」をあらわにするものとしての本質を持っている。そのことを克明に描き出したハイデガーの芸術論は、実に見事だ。

 しかし、それがほとんど絶対的な真理のあらわれとして描かれている点において、本書はやはり、後期ハイデガーにおける、現象学的実存論から形而上学への「転回」(ケーレ)を象徴する作品と言うべきだろう。


1.物、道具、作品

 芸術作品について考察するにあたって、ハイデガーはまず「物」について考える。芸術作品も一個の「物」である以上、「物」とはそもそも何であるか、明らかにしておく必要があるからだ。

「物が物であるかぎり、物は真実のところ〔in Wahrheit〕何であるのか。」

 ハイデガーは次のように言う。

「われわれにとって自然なものとして現れてくるものは、おそらくは、ただ長い間の習慣にとっての通常のものにすぎないのだろう。」

 物とは、まずは何ら理論的なまなざしのもとにおいて現れるのではなく、いわば単なる物として私たちに現れる。

 ここからハイデガーは、「道具」「作品」について考察を深める。

「道具は、物体性〔Dinglichkeit〕に規定されているからなかば物であるが、やはり物以上のものである〔有用性に規定されているので〕。同時に、道具は、なかば芸術作品であるが、芸術作品の自己充足性がないので、やはり芸術作品以下のものである。」

 道具とは、われわれにとって「有用性」として現れるものである。一方芸術作品は、この有用性に回収されない意味を持ったものである。

 では芸術作品とは何か。農婦の靴を描いたゴッホの作品〈靴〉を取り上げながら、ハイデガーは言う。

「農婦が労働にさいして靴のことを考えなければ考えないほど、あるいはそれどころか靴を注視しなければしないほど、あるいはただ感じさえしなければしないほど、それだけ靴はますます真正に靴が〔本来〕それであるところのものとなる。」

 芸術作品とは、単なる有用性に回収されない、むしろ有用性の根拠を知らしめるものである。ハイデガーはそう言うわけだ。そこで芸術作品の本質は、次のように言われることになる。

「そういうわけで、芸術の本質は、このこと、すなわち存在するものの真理がそれ自体を−作品の−内へと−据えることであろう。」



2.大地と世界

 ここでハイデガーは、「大地」「世界」という独特の概念を提示する。

 大地とは何か。ハイデガーは言う。

「大地とは、立ち現れることが立ち現れるもの一切を、しかも立ち現れるものとして、それの内に返還し保蔵する〔zurükbergen〕ものである。」

 要するに、大地とは、ハイデガー独特の仕方で言い直されたいわば一種の「真理」だと言っていい。

 それに対して世界とは、世界性をもった世界、いわばわれわれに属するものとしての世界である。

 とは言っても、ここで言う世界とは、『存在と時間』で記述された「世界」と比べれば、より「真理」に近いニュアンスを持っている。

「世界は世界となる〔Welt weltet〕のであり、そしてそれは、われわれが精通していると思っている把握可能なものと受容可能なものよりもいっそう存在的にある。」

 大地と世界との関係を、ハイデガーは次のように言う。

「世界は大地の上にそれ自体を基づけ、大地は世界中いたるところに突出する。〔中略〕世界は、大地の上に安らいつつ、大地をいっそう浮き立たせようとする。世界は、それ自体を開けるものとして、どのような閉ざされたものをも容認しないのである。しかし、大地は、保蔵するものとして、世界をそれ自体の内に引き入れ、留保する傾向がある。」

 実にもって回った言い方だが、要するに、大地という秘められた存在それ自体の真理があり、それにあずかって、それぞれの世界が現出しているのだ、とハイデガーは言いたいわけだ。

 さて、芸術作品とは、この大地と世界の闘争である。ハイデガーはそのように言う。

「作品の作品存在は、世界と大地との間の闘争を闘わせること〔Bestreitung〕にある。闘争は〔聞い合うものたちの〕親密さという単純なものにおいてその絶頂に至るのだから、闘争を闘わせることによって生起するのは作品の統一である。」

 芸術作品とは、己を隠そうとする大地に対して、とりわけという仕方でこれを引きはがそうとする世界を立てるものである。つまり芸術作品とは、普段は隠されている真理を見えるようにするもなのだ。

 そこで本書最後の問いは、次のようになる。

「真理が芸術として生起できるとすると、あるいはそれどころか生起しなければならないとすると、そのような真理とは何であるのか。」


3.芸術とは真理の生成である

 ハイデガーは次のように言う。

「真理がそれによって開示された存在するものの内にそれ自体を整え入れる本質的な仕方の一つは、真理が〈それ自体を−作品の−内へと−据えること〉である。真理がその本質を発揮するもう一つ別の仕方は、国家建設の行為である。〔中略〕さらに、真理がそれ自体を基づけるもう一つ別の仕方は、本質的な犠牲である。さらに、真理が生成するもう一つ別の仕方は、思索する者の問うことである。」

 正直言って、このあたりもはやむちゃくちゃだと言いたくなる。

 真理は、芸術国家建設本質的犠牲、そして思索によって現れる。

 いったい何を根拠に言っているのか、むちゃくちゃだ。後期ハイデガーに特に顕著な、いかにも深淵なことを言っているかに見えて、実は単なる「趣味」を持って回った言い方で言っているだけ、という印象を受けずにはいられない。

 ともかくハイデガーは、芸術について次のようにしめくくる。

「芸術とは真理の生成であり生起である。」

 そして芸術とは、本来的には詩作である。

「言葉がまず第一に存在するものを命名する〔nennen〕ことによって、そのような命名がはじめて存在するものを語〔Wort〕にもたらす、すなわち出現することにもたらす。この命名が存在するものを、その存在からその存在へと呼び出す〔ernennen〕。」

 この辺り、形而上学的匂いをなくせば、かなり本質的な議論であるとは思う。芸術とは、それまで見えなかったものをあからさまにし、「なるほど、これがそうだったのか」と言わしめるような命名である。それは確かにその通りだろうと思う。

 ただしそれが「真理」であるなどと言うのは、確かめ不可能な形而上学である。

 ハイデガーは本書を次のように締めくくる。

「芸術作品の根源、すなわち同時に、或る民族の歴史的現存在を意味する、創作し見守る者たちの根源は、芸術なのである。そうであるのは、芸術がその本質において根源だから、つまり真理が存在するようになり、歴史的になる或る卓越した在り方だからである。」

 後期ハイデガーの、いかにも形而上学的な芸術論と言えるだろう。

(苫野一徳)


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