フーコー『監獄の誕生』

はじめに

 その博学さと影響力において、今なお現代思想の最高峰に君臨し続けているフーコー。

 ニーチェ的な系譜学の影響を受けたフーコーは、絶対的真理を否定・相対化した上で、各時代の「真理」といわれるものが、実は権力によって虚構的に生み出されてきたものだったのだということを次々と暴き出していく(ニーチェ『道徳の系譜』のページ参照)。

 本書は、「監獄」の誕生過程を分析することで、それが「権力」にとっての新しい経済的な「支配」技術だったことを明らかにするものだ。

 権力の強大さを示す公開処刑から、罪人を人びとの目から隠す「監獄」への移行。

 教育もまた、権力に従順な子どもたちを育てる「監獄」のようなものである。

 フーコーの主張は、教育界にきわめて大きな衝撃を与えた。

 いわゆる「規律・訓練」理論が論じられた、フーコーの代表的著作の1つである。


1.本書の目的

「権力は知を生み出す。権力と知は相互に直接絡み合う。ある知の領域との相関関係が組み立てられなければ権力的関連は存在しないし、権力的関連を想定したり組み立てられたりしないような知は存在しないのである」

 フーコーによれば、ヨーロッパでは、18世紀末から19世紀にかけて残虐な身体刑というものがなくなった。

 それまでは、犯罪者を車で八つ裂きにしたり火あぶりにしたりということが、広く行われていた。そしてそれは、公開処刑の形をとった。

 それは権力者によるみせしめだった。権力者が、自分に逆らうことがどれほど罪深いものであるかを、民衆に知らしめる行為だったのだ。

 しかしそうした身体刑は、19世紀以降消滅した。フーコーはそう指摘する。

 それに代わって誕生したのが、「監獄」だ。

 「監獄」においては、受刑者は民衆の目から隠される。そして矯正教育が施される。

 この変化の意味はいったい何か。なぜそのような劇的な変化が起こったのか。

 それは「監獄」が、権力者にとって最も都合のよい経済的な方法であったからだ。

 そしてそれは「」と必然的に結びつく。

 監獄において、受刑者を権力者の都合のいい人物へと矯正する。

 その過程において重要な役割を担ったのは、教育学、心理学、医学、といった「知」であったのだ。


2.身体刑の機能不全

19世紀以降、『残忍極まりない』のが恥ではなかった刑罰に代わって、『人間的』なものであるとの名誉を主張する懲罰が用いられるようになる。その根拠は何か。」

 フーコーはこの問いに次のように答える。

「民衆は、彼らを戦慄させるために考え出された処刑の見世物におびきよせられながらも、大急ぎで処罰権力に対する拒否を時としてやってのけた。不当だと考える処罰を妨害し、力ずくで執行人どもを攻撃する。死刑囚に関して言えば、彼はもはや死ぬだけだから、いわば瞬時の無礼講をやってのける。それに目撃者たちが歓声を送る。しばしば見られたように、死刑囚は死後各種の聖人となった。」

 つまり身体刑は、これに反発する民衆たちの反抗によって、機能不全に陥ったのだ。

 さらにまた、フーコーによると、犯罪それ自体もまた次第に緩和することになった。職業的な悪党たちによる悪行よりも、一般人による軽微な犯罪が増えたのだ。

「そこですべての不法行為を新たにコード化する必要が出てくる。違法行為の経済策は、資本主義社会の発達につれて再構造化されることとなる。刑罰制度を、すべての違法行為を排除するための、ではまったくなく、違法行為を差異に留意しつつ管理するための装置として把握しなければならない。」

 見せしめから教育へと変化することが、もっとも経済的な違法行為管理の方法となった。

 そしてそのためには、権力も、また犯罪も、できるだけ人の目に触れないようにすることが重要だった。
 


3.監禁という懲罰

 以上のような経緯によって、身体刑から監禁刑へと、刑罰はそのあり方を変えた。

 しかしそれにしても、

「なぜ、またたくまに監禁が懲罰の本質的形態となったのか。」

 フーコーは言う。

 それは、この方法が犯罪者たちを矯正することを最も容易にしたからだ。

「刑罰制度は、要するに規格化するのだ。」


4.教育への応用

 先述したように、このような権力は知」と結びつく。

 それが最も顕著に表れるのが教育」だ。

「試験は可視性を個々人に対して設定する。それゆえ規律・訓練のすべての装置のなかでは試験が高度に儀式化される。学校は試験装置になる。〈試験中心〉の学校の時代は、学問として機能する或る教育学の端緒を告げたのである。」

 学校というシステムにおいて、子どもたちは、権力にとって都合のいい人格へと形成されていくようになったのだ。


5.一望監視装置=パノプティコン

 ここでフーコーは、パノプティコンというベンサムが考えた監視装置に言及する。


 一望監視装置と呼ばれるものだ。

 囚人全員を、ひとりの看守が一望に監視することができる。しかし囚人からは、その看守をみることができないように設計されている。

「これは重要な装置だ。それは権力を自動的なものにし、権力を没個人化するからである。〔中略〕今やそこでは権力の行使が社会全体によって取締り可能である透明な建物に変わるわけである。」

 こうして現代の刑罰は、みせしめから監視=矯正へと変貌していったのだ。

 以上のように、フーコーは様々な史料を駆使して、われわれの目には見えない権力がいかにわれわれの生活を支配しているかを暴き出していく。

 その分析手法は見事だし、記述の仕方もまた、一流の推理小説を読んでいるような面白さがある。

 しかし今私たちが考えるべきことは、「あれも権力、これも権力」と、隠れた権力構造を暴き出し続けることではなく、どのような権力のあり方であれば「正当」といえるのか、という問いなのではないか。

 批判と相対化に終始する時代は終わった。わたしはそう考えている(実はフーコーも、晩年は批判と相対化の次の思想を展開しようと考えた。『性の歴史』のページ等を参照されたい)。
 

(苫野一徳)

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