バクーニン『神と国家』

はじめに

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 無政府主義の代表的思想家、バクーニン。

 プルードンのページでも書いたが、今日無政府主義は、あまりリアリティのある思想とは見なされていない(プルードン『19世紀における革命の一般理念』のページ参照)。

 しかしそれでも、本書におけるバクーニンの洞察は中々に鋭い。

 特に、ヘーゲルの影響を大きく受けたに違いない「自由」論などは、かなりの完成度のものだとわたしは思う。

 無政府主義思想の登場には、それなりの必然性があった。彼らの「方法論」は失敗に終わったが、しかし彼らが洞察したものの中には、今日においても救い上げられるものが多々あるのではないかとわたしは思う。


1.唯物論VS観念論

「論理的で自然的な唯一の体系である唯物論においては、社会とは、人間個人の自由を減じたり制限したりするどころか、逆にそれを生み出すものにほかならない。」

 唯物論観念論は、認識論的に考える限り観念論によって一元化されるとわたしは考えている(むしろ方法的観念論としての現象学によって一元化される)。


 しかしこと社会論に関していえば、このバクーニンの言い方には一定の説得力がある。

 唯物論と対極をなす観念論について、バクーニンは次のように言う。

「彼らの体系においては、人間はそもそものはじめに不死の存在として、また自由の存在として生まれ、やがて奴隷となることで終わる。不死にして自由、無限にして自足的な存在、これが人間である以上、人間は社会をいささかも必要としないのだ。」

 人間はそもそも自由なものとして生まれた。しかし社会は、その自由を堕落させるである。

 これが観念論の論理的帰結だとバクーニンは言う。

 しかしこの観念論は、まったく現実をみない考えだ。

 いったいどんな根拠で、人間はそもそも自由である、とか、社会がこれを堕落させる、とかいうことができるのか。

 彼の考えでは、むしろ事態は逆である。

「私が真に自由であるのは、私をとりまく万人が、男であれ女であれ、同等に自由である場合にすぎない。他人の自由とは、私の自由の制限であったり、否定であったりするどころか、これとは逆に、私の自由の必要条件であり、その確証なのだ。」

 自分は自由だ自由だとただ主張しただけで、わたしたちは自由になれるわけがない。


 われわれの自由は、ただ他者との関係においてのみ創出されうるものなのだ。そうバクーニンは言うわけだ。



2.観念論的道徳批判

 バクーニンによると、観念論(バクーニンはこれをかなりカルヴィニズムと結びつけて考えている)は、人間は本来的な善=自由たるべく務めることを強いられるが、社会がそれを妨げる、と考える。そこで、社会における他人を、自らが「善」であるべく利用するという道徳が生まれてくる。

 しかし実は、それが搾取の始まりなのである。

 観念論者たちの社会論によって、搾取統治が正当化されることになったのだ。バクーニンはそう主張する

「かくして、形而上学者たちの理論に従って構成された社会において、諸個人間に存在する関係の、二つの異なった、しかも互いに対立する様式とは、次のようなものになる。その第一は搾取であり、第二は統治である。」

 このように、バクーニンは搾取と統治の根拠自体を否定し、これを覆そうと試みる。

 バクーニンの批判は、中々鋭いものだと私は思う。

 しかしそこから無政府主義へ行くのは、少し早急に過ぎる、とも思う。
 
 搾取のない社会を実現するためにこそ、われわれはある一定の統治を必要とする。

 ではどのような統治であれば、われわれはそれを「正当」と認めうるのか。


 わたしたちが問うべきは、本来この問いであるはずだ。そしてわたしの考えでは、この問いには、実のところ、無政府主義者たちが批判したルソーによってすでに答えが与えられている(ルソー『社会契約論』のページ参照)。


(苫野一徳)



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