ローティ『連帯と自由の哲学』

はじめに

Rorty2 アメリカプラグマティズムの後継者ローティは、現代哲学最大の知識人の一人だ。ヨーロッパ哲学とはまた違った独自の観点は、私の考えでは比較的かなりいけている。

 ある種の絶対主義を掲げたり、あるいはこれに対して完全な相対主義に陥らざるをえなかったりするヨーロッパ哲学とは一線を画す、まさにプラグマティックな思想がここにはある。

 政治哲学の文脈からすれば、本書はかなりのレベルを誇っていると私は思う。しかしまた、限界も見出さないわけにはいかない。

 そのことも含めて、本書を散歩してみよう。


1.真理対応説の否定

「われわれが行っているのは、まったく消極的な主張である。つまり、知識と意見という伝統的な区別——〈実在との対応としての真理〉と〈うまく正当化された信念に対する褒め言葉としての真理〉との間の区別として解釈されるような——を行なわない方が、うまくいく、と言っているのである。」

 絶対的真理がどこかにあり、これを獲得できればわれわれは幸福になれるはずだ、自由になれるはずだ、というのが、近代哲学のある基本的考え方だった(私の考えではこれは一面的な近代哲学理解だが)。

 現代哲学は、こうした近代哲学の前提を徹底的に相対化し続けてきた。ローティも、それに一役買った立役者だ。

 ローティの考えでは、絶対的真理などという考えはないほうが「うまくいく」。

 実にプラグマティックな考え方だが、私としては、ではどういう場合に「うまくいく」のか、と問うてみたい。それはいつでも観点や関心によって変わるはずだ。

 だからこういう中途半端なことを言うよりは、現象学的に、絶対的真理は認識不可能であるから「エポケー」するほかない、と考えたほうが賢明だと私は思う(フッサール『イデーン』等のページ参照)。

 ともあれ、ローティの思想の基本的構えは、この「絶対的真理」を相対化するところにある。

 しかし、だからといって徹底的「相対主義」ではないところがおもしろい。彼は次のようにいっている。

「私の言う自文化中心主義は、自分たち自身の光に照らして事をなす、という立場でしかない。事をなすのに使える光がほかにないから、自文化中心主義なのである。他の個人や文化が提示する様々な信念を吟味するには、それらを、われわれがすでに持っている信念と、織り合わせてみなければならない。」
 
 われわれは、さしあたり自分をとりまく文化を中心にしてしか物を考えることができない。そしてこれを、他者の文化と織り合わせることしかできない。

 だからこれは単なる相対主義じゃないんだぞ、とローティは言っている。

 これは実はけっこう現象学的な考えだ。

 現象学は、これを一言で「関心相関性」の原理とよぶ。

 われわれは一切を「関心相関」的にしか捉えることができない。そしてこれは、中々疑うことのできない「原理」であるはずだ。

 ローティはここまで徹底して言っていないが、私としては、彼は一応ここまでは考え抜くことができていたと思う。

 しかしその先まで、ローティは考えを進めることができなかった。実は現象学この「すごさ」は、まさにこの先まで思考を進めることにあったと私は考えているのだが(詳細はフッサールのページを参照)。

 だから彼の政治哲学は、私には徹底的に鍛え抜かれてはいないように思える。

 しかしここで詳論することは避けて、以下、本書の続きを追っていくことにしたい。


2.民主主義は哲学に優先する

「社会理論の諸目的は、非歴史的人間本性、自我の本性、道徳的行動の動機、人生の意味、といった話題を顧慮しなくても、達成することができる。」

 近代の社会理論は、すべて人間本性とは何か、というところから社会理論を構築した。しかしそれは、絶対的真理を信奉した哲学者たちが、これこそ人間の絶対本質だ、という、あやまった考えから作り出したまやかしだ。ローティはそんな感じで、従来の社会哲学を批判する。

 そして次のように言う。

「したがって、そうした秩序と人間本性との関係を説明するものとしての哲学も、これまた民主政治には何の関わりもない。それらが衝突するときには、民主主義が哲学に優先するのである。」

 民主主義は哲学に優先する。

 このテーゼは、半面正しいと私は思う。しかしローティの考えはまだ不徹底だ。

 確かに、人間とは絶対にこのような存在だ、だからこのような社会が正当化されるのだ、という言い方は、絶対確実ではない。

 哲学が人間本性を絶対的に言い当てようとする営みだとするなら、ローティの言っていることは正しい。

 しかし哲学が共通了解を取り出そうとする営みだとするなら(そして私の考えでは哲学とはまさにそのような営みなのだが)、ローティの言っていることはあたらない。むしろ問題を困難にしているだけだ。

 民主主義は、共通了解を取り出そうとする営みを達成する、最も重要な「条件」だ。その意味で、民主主義は哲学的に基礎づけられるべきものだ。民主主義をア・プリオリなものとして措定するのは妥当でない。なぜ民主主義が重要なのか。結局これも、みなの納得と了解によってしか基礎づけられないことなのだ。

 私の考えでは、ローティは「関心相関性」の原理までは言い当てることができた。しかしそこからの展開がない。どうやって共通了解を取り出せばいいか、その方法論を提示しえていないのだ。まさに彼自身、いみじくも「方法を持たないプラグマティズム」といっている。

 しかし現象学は、ちゃんとこの問いに答える方法をもっている。

 ローティは、人間の本性を問うた近代哲学者たちの営みを、全部棄却してしまった。

 それは早計だった、と私は思う。

 関心相関性を原理としたうえで、ではわれわれはどのような生を欲するのか、その人間の本性根本仮説として問いあうこと。絶対的答えではなく、あくまでも、いつまでも、根本仮説として提示し続けること。その過程で、何がもっとも「うまくいく」のかが分かってくる。

 ローティが提示しえなかった方法論は、ここにあるはずだ。

(ちなみにこの課題を、私は拙著『「自由」はいかに可能か』などで解明・提示しています。ご興味のある方に手に取っていただけると幸いです。)

(苫野一徳)


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