デュルケーム『道徳教育論』

はじめに

エミール・デュルケームの画像-p1_2 教育とは「若い世代を組織的に社会化することである」といったデュルケーム。

 教育学の世界では、これを形成論的立場という。

 対して、ルソーフレーベル的思想を、一般には生成論的立場という。

 教育は外部からの「形成」か、それとも内部からの自発的な「生成」を促すことか。この対立は、一般にはデューイが「成長」の概念で解消したとされているが、いまもなお様々な形で続いている。

 私の考えでは、デュルケームは社会学者としては先駆者として超一流であったかも知れないが、教育などの「価値」を扱う際には、驚くほど非原理的な考え方をする。


 いや、それは、デュルケームの社会学的方法からすれば当然のことだったといえるかもしれない。彼の方法は、とにもかくにも、社会を個人を超越して絶対的に実在するものとみる。そして道徳は、個々人が豊かに生きられるよう少しずつ編み上げられていくものではなく、むしろ個々人を絶対的に規定する権威として捉えられる。教育は、その権威に従わしめるための方法である。

 このような考えは、いつの時代にも現れるものだ。しかしそれは、ほんとうに皆が納得する、鍛え抜かれた思想といえるだろうか。


1.社会が存続するための教育

「教育は、個人およびその利益をもって、唯一もしくは主要な目的としているのではまったくなくて、それは何よりもまず、社会が、固有の存在条件を不断に更新するための手段なのである。」

 デュルケームの基本的構えは、人間を作るのはその人間が属する社会なのだから、教育とはそもそも社会が自らを更新し続けるための営みである、というものだ。

 これは、確かにある一つの見方ではあるだろう。われわれはかなりの程度、社会に求められる人間像へと育て上げられる。

 しかしだからといって、ほんとうに、それは社会の存続だけを目的としているのだろうか。

 教育は、社会の存続という目的を持つ一方で、個々人の生を豊かならしめるためという目的も持っている。つまり教育は、社会のためであると同時に、また個人のためのものでもある。両者は支え合う関係にあるのだ。


 この観点をまったく無視して、教育を社会の更新という目的にのみ定めたデュルケームのいい方は、私にはきわめて不徹底であるように思われる。


2.完全に合理的な道徳教育が可能

「まず、はじめにいいたいのは、完全に合理的な道徳教育が可能だ、ということである。このことは、科学の根底にある要請そのもののうちに意味されている。わたくしは、この要請を合理主義的要請と呼びたい。すなわちそれは、人間の理性をもってして説明しえないものは、現実のうちには何ら存在しないとする原理である。」

 これは、デュルケームの思想を語る重要な言葉だ。

 自然科学のめざましい成功が、当時の学者たちに、この方法を人間や社会を考える際にも応用しようという考えを抱かせた。「科学的」な方法が、人間とは何か、社会とは何か、という問いに、明確な答えを与えてくれるに違いない、と。

 社会学や心理学は、そのような希望と共に生まれた。

 自然科学がさまざまな「真理」を明らかにしたように、社会科学も、きっと人間や社会の「真理」を明らかにすることができるはずだ。多くの学者たちはそう考えた。デュルケームはその代表だ。

 そしてデュルケームは、道徳の法則もまた、その絶対的な「真理」を科学的に明らかにできるはずだと考えた。彼は次のようにいっている。

「生命界は、科学的思惟のおよばぬ神秘的な原理に依存しているかにみえたが、やがて生物学があらわれ、次いで心理学がつくられて、生命現象や、精神現象の合理性が明らかにされるにいたった。それゆえ、道徳現象だけがその例外だと考える根拠は、どこにもない。」

 しかしこの夢は、今日完全に崩壊したといっていい。その理由は、すでにデュルケームと同時代人のフッサールが明らかにしている(フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のページ参照)

 簡単にいうと、われわれは、人間や社会を、自然現象を分析するようには分析できないのだ。分析の対象が、われわれとは無関係に存在しているものではなく、当のわれわれ自身であるからだ。


 そこにはおのずと、ある「観点」「価値観」が含まれている。その「観点」や「価値観」が少し変わるだけで、人間や社会の分析の仕方もがらりと変わってしまう。自然科学の方法を取り入れた人間・社会諸科学が、現在深刻な「信念対立」を起こしているのは、まさにそのような理由があるからなのだ。

 しかしともあれ、先に進もう。


3.道徳性の3つの要素

 道徳性とは何か。この問いに対する答えを、デュルケームは克明に描きあげている。

 まず第1の要素は、「規律性」である。

「道徳の領域とは義務の領域であり、義務とは命令された行為である。」

 われわれの道徳性は、従って、この命令に従うことのできる「規律性」だということになる。

 第2の要素は、「社会集団への愛着」である。デュルケームは、社会を次のように捉えている。

「社会は、その成員の性質とはっきり区別されるところの独特の性質を持ち、個人の人格とは異なる固有の人格をそなえた独自の存在を構成せねばならない。一言にしていえば、その全き意味における社会的存在なるものが存在せねばならないのである。」

 デュルケームの考えでは、社会あっての個人である。だから個人は、社会に服従しなければならない。したがって、道徳性の1要素もまた、「社会集団への愛着」ということになる。

 第3の要素は、「意志の自律性」である。これは大変面白い指摘だ。

 「道徳」とは絶対不可侵のもので、絶対服従しなければならないものなのだが、だからといって、これに盲従せよというのでもない。そうデュルケームはいう。

 「道徳」の法則を知り、それが絶対的なものだと知ったうえでの服従は、単なる盲従ではなく、自らそれを選んだ、すなわち「意志の自律性」なのだ。

「事物の秩序に従うにしても、事物の秩序とはかくあるべきはずのものという確信に基くものならば、それはもはや屈従ではない。それは、事物の秩序を自由意志によって欲することであり、事情をわきまえた上でこれに同意することにほかならない。」

 そしてまたもや、デュルケームはいう。この法則を、われわれは「科学」によって知ることができるのだ、と。

「外界の事物を把握し理解することによって、われわれは事物から解放されるのであり、しかも、われわれが事物から解放される術は、それ以外にないのである。科学こそは、われわれの自律性を生み出す源泉だといえよう。ところで、道徳的秩序においても、これとまったく同様の自律性が存在するはずである。」


4.道徳性の諸要素の教育方法

 『道徳教育論』第2部では、これまで述べてきた道徳性の諸要素を、どうすれば子どもたちの内部に形成することができるかの方法論が述べられている。

 これまでかなりデュルケームに批判的に書いてきたが、このいわば「実践」の部に関しては、個人的にはかなりうなずける部分も多い。

 たとえば彼は、体罰について次のようにいう。

「そもそも、あの教師という職業につきものの物知りぶった態度の底にあるのは、一種の誇大妄想癖ではなかろうか。道徳的にも、また知識の上でも自分より劣っている人間としばらく接触しているうちに、とかく人は知らず知らずのうちに誇大感情を抱いてしまい、これをおのずから素振りや態度、言葉使いなどに示してしまうものだ。そして、この感情はたちどころに暴力となって外に現われる。このような感情を損なう行為は、すべてとりもなおさず自己の権威の冒涜になるのである。自分より劣った者を前にしての忍耐は、仲間相手の場合よりも遥かにむずかしく、己れにたいして遥かに大きな努力が要るものだ。」

 「自分より劣っている人間」に対しては、まるで自分の強さを誇示しようとするかのように、われわれは暴力を振るってしまいがちだ。しかしそれは、結局その人の弱さなのだ。「自分より劣った者を前にしての忍耐」は、安易に暴力に頼るよりもはるかに大きな努力を要する。

 見事な洞察だと私は思う。

 しかし結局のところ、デュルケームの考えは、規律に従う精神も、社会集団に対する愛着も、もともと子どもが持っているものだから、これを徹底的に利用しろというところに落ち着く。


 そして何より、科学教育。科学を知ることで、道徳法則もまた絶対的なものであることを知らしめよ、というのが、デュルケームの方法で大きな位置をしめている。

 個別的にみればそれなりに面白い「方法」を論じてもいるが、しかし私の考えでは、デュルケームの『道徳教育論』は、「科学的」道徳論の、大いなる失敗を明らかにするものだ。

 「道徳」の絶対的法則を「科学的」に解明することなどできない。

 私の考えでは、それは、個々人が関係性においてより豊かに生きられるよう、互いを調整する「ルール」として捉えなおされるべきものだ。


 ルールは、絶対に従ってばかりいなければならないものではない。それは、より豊かな関係性という目的のもと、改変可能なものであるはずだ。

 ではどのようなルールであれば、われわれはより豊かな関係性を作り上げていけるのか。

 われわれが問うべきはそのような問いであって、どうすれば絶対的「道徳」法則に服従させられるか、ではない。


(苫野一徳)

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