ルソー『政治経済論』

はじめに

 『社会契約論』より以前に、ルソーの一般意志の哲学が存分に発揮された名著。

 政治権力はいかなる時に正当といいうるか、そして正当な社会を、私たちはどのように作っていくことができるか。

 ルソーの原理的思考と透徹した現実把握が光る。

 もっとも、時代的制約上、今日の人が読んだら、何と「時代錯誤」な思想だろうと思うところも多々あるには違いない。

 しかしそれは、まさに現代から見た「時代錯誤」な思想だということを十分理解しておく必要がある。

 『エミール』『社会契約論』等のページでも書いたが、ルソーという思想家は、どういうわけかこれまで、多くの人たちから常に現代的感覚をもって批判され、その本当に画期的な思想が正当に評価されてこなかった経緯がある。

 哲学を読む時は、常に「時代の時代性」を意識して読む必要がある。特にルソーを読む時、私たちはこのことを肝に命じておくべきだろう。


1.家族の統治と国家の統治

 まずルソーは、ÉCONOMIEという言葉は家を意味するオイコスと法を意味するノモスから来たもので、もともとは一家の統治を意味していたことを指摘する。

 しかし家族と国家の統治は、今では同じものではあり得ない。

「国家の統治が、どうしてその基礎の著しく異なる家族の統治に類似したものでありうるだろうか。父親は子供たちよりも肉体的に強力だから、父親の助けが彼らに必要なあいだは、父権は、正当にも自然によってうちたてられたものとみなされる。しかしその全成員が生来平等である大家族〔国家〕においては、政治権力はその成立に関しては、まったく恣意的であって、ただ契約にもとづきうるだけであり、役人は法によってしか他人に命令することができない。」

 家族は父の強さによって、国家は社会的な契約によって、その統治が正当化される。ルソーはそのように言うわけだ。

 もっともここで、ルソーは父権的な家族をこそ称揚する。『エミール』のページでも見たように、ルソーに男性中心主義があったことは否めないだろう(ルソー『エミール』のページ参照)。

「家族のなかでは父親が命令しなければならない。まず第一に、権威は父と母のあいだで平等であってはならない。支配は単一でなければならないし、意見が分かれたときには、判断を下す一つの優越した声が存在しなければならない。(二)、たとえば婦人には活動できない時期がかならずあるというような、婦人に特有の不都合は、いかにささいなことと考えられようとも、婦人をこの優越から除外するのに十分な理由である。」


2.法と一般意志

 続いてルソーは、『社会契約論』で存分に展開される、次のテーマに着手する(ルソー『社会契約論』のページ参照)。

「人々が服従しながら、しかもだれも命令するものがなく、仕えてはいるが主人をもたないようなこと、要するに外見上は拘束のもとにおかれてはいるが、だれも自分の自由のうちで他人の自由を害しうるものしか失わないので、じっさいにはそれだけいっそう自由であるというようなことは、どうして可能なのであろうか。これらの奇跡は、法の所産である。人々は、正義と自由を法にのみ負っているのである。」

 自らが「自由」であるためには、自らを法や権力に従わせなければならない。ただ自分は「自由」だと主張し合うだけでは、単なる弱肉強食の世界になってしまうからだ。それゆえに私たちはを必要とするのだが、この法の存在のお陰で、私たちは自らを法に従属させながらもなお自由でいられるとルソーは言うのだ。

 ではそのような法は、いかなる時に正当といいうるか。

 ルソーからすれば、悪法もまた法であるなどとは決して言うことができない。

 それは、ある一部の人の意志が専制的に振る舞うような法であってはならず、すべての人の意志が代表されている時にのみ正当である。

 すなわちそれが、一般意志の理念である。

 法や権力は、一般意志を代表している時にのみ正当といえる。

 これがルソー政治論の最大のポイントである。ルソーは言う。

「したがって私は次のように結論する。すなわち、立法者の第一の義務が法を一般意志に合致させることであるのと同様に、公経済の第一の規則は、行政が法に一致することである。」

 ここでいう「公経済」とは、公の政治経済をつかさどる「政府」のことである。政府はまず、自らを一般意志=法に従わせなければならない。そうルソーは言うのである。

 
3.教育

 政府の第二の原則、それが教育にある。ルソーはそのように言う。

「第一の規則に劣らず重要な、公経済の第二の本質的規則。それは、一般意志が実現されることをもしあなたがたが欲するならば、すべての特殊意志をそこに結集すべきであり、そして徳とは特殊意志の一般意志へのこの一致にほかならないのだから、同じことを一言で言えば、徳を行きわたらせよ、ということである。」

 社会の正義とは、一般意志のほかにない。

 言うまでもないが、これは全体主義的な全体意志ではなく、あくまでも、正義とは、ある一部の人の利益にかなう社会ではなく、すべての人の利益にかなっていなければならないとする正義の理念である。そしてこの正義の理念を育んでいくために、私たちの社会は教育を必要とする。

 もっともここで、ルソーは祖国愛の重要性について論じる。

 このあたり、私たちは先述したように必ず「時代の時代性」を意識して読む必要がある。ルソーは別段、現代的意味における「国家主義者」であったわけではない。彼を現代的観点から国家主義者であるなどと言って批判することは的外れなことだ。時はフランス革命前夜、市民国家それ自体がまだ成立していたなかったということを、私たちは十分理解しておく必要がある。

「もっとも有効なのは祖国愛である。というのもすでに述べたように、特殊意志がすべての点で一般意志に合致するときには、あらゆる人間は、有徳になるからであり、われわれの愛する人々が欲することをわれわれも喜んで欲するからである。」


 この祖国愛の涵養が、単なる滅私奉公の思想ではないことを示すため、ルソーの次の言葉も引用しておきたい。

「全体のためにただ一人の人間が死ぬことはよいことだと言われるが、この格言が、自分の国を救うために、自発的に義務感から死地におもむくすぐれた有徳の愛国者の口から出るときには、私は称讃しよう。しかし、多数の救済のためには、一人の無実の者を犠牲にすることが政府には許されるという意味であれば、この格言は、圧制がかつて考えだしたもっとも忌まわしいものの一つであり、主張しうることのうちでもっとも誤まったものであり、許容しうることのうちでもっとも危険なものであり、社会の基本法に対してもっとも直接的に対立するものだ、と私は考える。」

 国家の存在理由、その最も根本的なものは、市民の生命安全を必ず保障するところにある。これをないがしろにする国家は、その存在理由を失うのだ。


4.公共の福祉の実現

 教育と共に必要なこと、それは公共の必要を満たすことである。ルソーは言う。

「公共の必要を満たすことは、一般意志の自明の結果であり、政府の第三の本質的な義務である。」

 公有地を管理し、財政を管理すること、それが政府の第三の義務である。

 また、ルソーは累進課税についても次のように言っている。

「貧乏人の負担を軽くし、金持に負担を負わせるまさにこのような租税によってこそ、財産の不平等の継続的な増大や、多数の労働者と無用な召使の金持への隷属や、都市における有閑者の増加や農村の荒廃を防止しなければならない。」


 ルソーの思想は、近代国家論の、最も鮮明な宣言の一つであると言っていい。

(苫野一徳)

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