デューイ『人間性と行為』

はじめに

John Dewey 習慣、衝動、道徳、善、自由、といった、人間性行為かかわるテーマを論じたデューイ中期の著作。

 人間性と環境の相互作用を通じて現れるものが、行為である。

 行為はどのようになされるのか。そしてその善悪はどのように判断されるのか。これが本書のテーマだ。

 プラグマティズムの哲学者デューイが最も心を砕いたテーマは、形而上学的真理の概念を相対化し、一切を状況におけるプラグマティックな概念として編み直すことだった。

 したがって行為の善悪も絶対的なものではなく、いつでも状況によって決まる。

 この言明は、確かに、ある程度時代に先駆ける洞察であったろうと思う。

 しかし私には、デューイの言い方が、どの著作においてもどうしても中途半端なものに思えてしまう。

「よい」「悪い」は、いつも状況に応じて決まる

 その通りだ。しかし誤解を恐れずあえて言うなら、デューイ経験哲学の方法は、一切を状況に還元してそれで終わりなのだ。

 ではわれわれは、どのような社会や教育を構想することを「よい」といえるのか。デューイ哲学の方法に依拠する限り、私たちはこの問いに説得力ある回答をなし得ない。

 状況による。これは結局、何も言えていないに等しい。

 かつて私は、拙著『どのような教育が「よい」教育か』(講談社)等において、デューイ経験哲学に現象学的本質学を導入することで、デューイの方法論的不徹底を鍛え直すことができると論じたことがある。興味のある方に、お読みいただければ幸いだ。


1.習慣としての徳

「すべての徳や悪徳は、客観的諸力を合体した習慣なのである。徳も悪徳も、個人の性質が寄与する要素と、外的世界の提供する要素の相互作用に他ならない。」

 道徳とは絶対的な法則であって、誰もが必ず従わなければならないものだ。このカント的道徳観を、デューイは批判し続けた。

「重要な問題は、道徳的なものと非道徳的なものとの、この相対的でプラグマティックなまたは知的な区別が、固定した絶対的区別に凝固させられ、そのためいくらかの行動は永久に道徳的領域のなかになり、他の行動は永久にその外にあると一般的に見なされたことである。」

 しかし徳も悪徳も、絶対的なものではない。そうデューイは言う。それは常に、習慣によって形成された人間的行為や態度にほかならない。徳も悪徳も、個々人の人間性環境とが相互作用を続けることで築き上げられた習慣なのだ。

 怠惰な人間性をもった人が、その怠惰が許容される環境に育つことでもっと怠惰になっていく。徳や悪徳は、このように人間性と環境との相互作用によって形成されていく。

 当たり前のことだが、このことが本書の、そしてデューイの思想の、いつも根底にあるものだ。


2.プラグマティックな善の概念

「有徳が目的であるのは、それが重要な手段だからである。正直であること、勇気をもつこと、親切であることは、特殊な自然的善、または満足な成果を生みだす途中にあるということである。誤りが理論のなかに入ってくるのは、道徳的善がその結果から切り離されるときであり、また、この二つを余すところなく、また誤りなく同一のものとして確保しようとする試みがなされるときである。」

 なぜある行為が有徳だとかだとか言われるのか。それは、それが「満足な成果を生みだす」からだ。正直であることが絶対的に善であるわけではない。正直であることが人を傷つけることもある。その場合、正直であることは、「満足な成果を生みだ」してはいないことになる。


3.道徳性の獲得は社会から

「通常、個人が道徳性を獲得するのは、彼が自分の社会集団の言語を受け継ぐからである。その集団の活動はすでにそこにあり、集団の活動の型にたいする彼自身の行動の同化が、そのなかの分け前の先行条件であり、したがって、そこで行なわれていることへの参加の先行条件なのである。」

 われわれの道徳性(に限らず感受性や価値観など)は、自分の所属する社会集団によって形成される。そうデューイは言う。

 したがってやはり、善悪の基準は絶対的なものではなく、社会によって異なるのだ。


4.善悪の基準

 とすると、端的に言って、われわれやわれわれの社会の善悪の基準は、根拠のない恣意的なものだということになる。だからこそ、デューイは次のように言う。

「尋ねることのできる、意味のある唯一の疑問は、いかにわれわれがこれらの事柄を利用するか、また、これらの事柄によって利用されるかであって、これらの事柄を利用するかどうかではない。」

 善悪の基準は相対的恣意的なものだ。だったらこれは、ただただ利用すればいい。

「要するに、選択は、慣習の外にある道徳的権威か、慣習の内にあるそれかの間にあるのではない。選択は、多少とも知的で重要な二つの慣習の間にある。」

 私はこういった言明に、デューイの思想の不徹底を感じざるを得ない。

 絶対的な道徳法則に従うのでも、慣習的な道徳に従うのでもない。その都度考えて行為しましょうね。デューイは結局そう言っているだけなのだ。そしてそれで、終わり。一言で言って、それは一般論だ。中身がない。

 ルソーなりヘーゲルなり、超一流の哲学者の言葉は、一般論ではない。本質論だ。超一流の哲学者たちは、その都度考えて行為しましょうねなどと、一般論を論じることはない。その都度のその行為が、どのような本質的な意味をもっているのか。彼らは常に、本質論を展開する。

 ともあれ先に進もう。


5.衝動、習慣、思考、善

 本書におけるデューイの発想を、手っ取り早く言うと次のようになる。

 われわれの行為の初発は、まず衝動にある。この衝動が習慣と相互作用し、実際の行為へと展開する。しかしその過程で、これまでの習慣的行動ではうまくいかない事態に遭遇する。そこに思考が生まれ、行動のあり方を再構成していく。

「熟慮は、以前の習慣と新しく解放された衝動との衝突による、有効で現実の行動が阻止されることから始まる。」

 したがってここに、より合理的な考えが生じる機会がある。

「合理性は実際には、欲望と対立する事物ではなく、むしろ欲望相互間の効果的関係の性質である。合理性は、以前には相容れなかった多様な好みのなかから、熟慮によって達成される秩序、パースペクティブ、釣り合いを意味する。」

 そしてとは、この衝動や習慣が対立することなく、もっとも合理的に問題が解決されるところにあるものである。

「善とは、相互に矛盾するさまざまな衝動と習慣の葛藤と紛糾が、行動のなかで統一した秩序正しい解決に至ったとき、活動に属する経験された意味から成り立つものである。」

 そして言う。

「次になにをすべきかの教示は、無限の目標から来るのではない。この無限の目標は、われわれにとって必ず空虚なものになる。それの教示は、現実の状況の欠陥、不規則性、可能性の研究から導きだされるのである。」

 何がよい行為か。それは常に、現実の欠陥と可能性を考え合わせるところにある。

 そうデューイは言うわけだ。

 さて、これ以上あまりデューイを批判したくはないと思うのだが、こういう文章を読むたびに、やはりデューイ哲学は物足りない、と思わざるを得ない。

 またも一般論なのだ。ではどのようなときに、どのような行為をわれわれは望むのか。その本質的な洞察が、デューイにはいつもない。

 たとえばアーレントバタイユのページなどをご覧いただきたい。彼らの思想には、人間やその行為についての、本質的な洞察がある(アーレント『人間の条件』バタイユ『エロティシズム』のページなど参照)。

 確かに、絶対的な善という観念がまた残っていたデューイの当時からしてみれば、彼の言明には新しさがあったかも知れない。

 しかしデューイ以前にも、すでにニーチェが形而上学を終わらせている。

 同時代の現象学は、形而上学を棄却した上で、なお人間や社会の本質洞察を可能にする方法を提示している。

 ローティ以降デューイルネッサンスが起こったと言われているが、哲学史をみてみれば、デューイの哲学はやはり超一流のものとは言えないと思う。

 もちろん彼の功績は十分に認めつつ・・・。

 デューイの功績については、『民主主義と教育』『経験と教育』などのページにすでに書いた。


6.道徳

 最後に再び、デューイは道徳について次のように言う。

「道徳は存在の現実性と関わりのあるものであり、具体的現実性から独立した理念、目的、義務とは関わりがない。道徳が依存する事実は、人間相互の能動的結びつきから生ずる事実であり、欲望、信念、判断、満足、不満の生活のなかで相互に絡み合う人間の活動の結果である。この意味で、行為、したがって道徳は、社会的なものである。」

 道徳は絶対的なものではなく、いつでも人々の相互作用の中にある。

 最後の最後まで、本書は一般論に終始する。


(苫野一徳)

Copyright(C) 2009 TOMANO Ittoku  All rights reserved.