レヴィ=ストロース『野生の思考』

はじめに

「構造主義」ブームの火付け役となった本書。

 現代人の多くは、神話的・呪術的な未開人の思考を、現代的な科学的思考に対して劣ったものと考えている。

 しかしそうした「野生の思考」は、実はわれわれの思考とはまた別様の、しかしより深いところにおいてはつながり合った、極めて論理的な世界把握(構造化)の形式なのである。

 本書でレヴィ=ストロースは、その論理構造を克明に描き出していく。


1.具体の科学

「どの文明も、自己の思考の客観性志向を過大評価する傾向をもつ。それはすなわち、この志向がどの文明にも必ず存在するということである。われわれが、野蛮人はもっぱら生理的経済的欲求に支配されていると思い込む誤ちを犯すとき、われわれは、野蛮人の方も同じ批判をわれわれに向けていることや、また野蛮人にとっては彼らの知識欲の方がわれわれの知識欲より均衡のとれたものだと思われていることに注意をしていない。」

 現代の文明人は、未開の思考を、迷信に支配された非合理なものと考えがちである。しかしレヴィ=ストロースは言う。実は未開人には未開人独特の論理的思考があり、それは現代科学とはまた別の論理を、しかし十分合理的に展開したものなのである、と。

 呪術と科学の違いに目を向けてみよう。両者は一見あまりにかけ離れたものに見えるが、しかし実のところ、奥深くでは、自然の因果性を前提しているという点において類似した思考形式である。

「すなわち、呪術的思考や儀礼が厳格で厳密なのは、科学的現象の存在様式としての因果性の真実を無意識に把握していることのあらわれであり、したがって、因果性を認識しそれを尊重するより前に、包括的にそれに感づき、かつそれを演技しているのではないだろうか?そうなれば、呪術の儀礼や信仰はそのまま、やがて生まれ来たるべき科学に対する信頼の表現ということになるであろう。」

「それゆえ、呪術と科学を対立させるのでなく、この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。」

 あるいは神話もまた、非合理なおとぎ話というよりは、人間が限られた材料で壮大なストーリーを作り上げる、一種の論理的な器用仕事(ブリコラージュ)である。

「神話的思考は器用人であって、出来事、いやむしろ出来事の残片を組み合わせて構造を作り上げるが、科学は、創始されたという事実だけで動き出し、自ら絶えまなく製造している構造、すなわち仮説と理論を使って、出来事という形で自らの手段や成果を作り出してゆく。」

 こうしてレヴィ=ストロースは言う。神話的思考と科学的思考は、奥底では密接につながり合った、人間の原初的思考形態なのである、と。

 さらに言えば、両者はむしろ支え合う関係にある。

「無意味に対したとき科学はまずあきらめて妥協したのであるが、神話的思考は抗議の声を上げるからである。」

 科学は客観的真理を求めるがゆえに、そこに人間的意味を見ることを捨象する。対して神話は、いわばそうした客観的真理の中に、人間的意味をこそ読み取るのである。

 これをレヴィ=ストロースは、科学が「概念」を使用するものであるのに対して、神話は「記号」を使用するものであると述べる。

 たとえば、水をH2Oという「概念」として捉えるのが科学であるとするなら、これをたとえば龍神として、つまり意味「記号」として捉えるのが神話である。要するに神話的思考とは、あらゆる存在物に、人間の側から様々な象徴的意味を与えていく思考形式なのである。

 これは、現代においてもなお、美術的思考として顕著に見られるものである。

「このような展望の中では美術が科学的認識と神話的呪術的思考の中間にはいることを簡単に述べておいてもよいだろう。」

 美的感動の本質は、偶然性の構造への統合にある。

 私なりに言うと、そのポイントは次のようになる。

 小説家は、ある偶然的なインスピレーションや経験を、ストーリーや文体という表現形式として構造化する。これは、たとえばそのインスピレーションを得た時の脳の構造がどうなっているかを分析するといったような科学的思考とも違っていれば、雑多な材料を集めて神話を構造化する、神話的思考ともやはり異なっている。いわばそれは、偶然性をほどよく残した、その構造化としての表現なのである。

「美術が、どんなにプロ的なものでも、それがわれわれを感動させるとすれば、その結果にいたるためには、偶然性を消して機会をおもてに出すこのような方向を適当なところで押さえ、その偶然性を作品にもり込み、それによって物それ自体としての尊厳を作品に与えることが条件になる。」

 科学的思考と美術的思考、どちらが優位であるかを言うことはできない。どちらも、人間の根源的思考形式なのである。



2.トーテミズム

 続いて、レヴィ=ストロースはトーテミズムについて考察を進めていく。

 トーテミズムとは、未開部族が、自分たちの部族と何らかの動植物を同一視し、これを信仰するものだ。

 現代文明人は、これを、未熟ないかにも未開の思考としてばかにする。

 しかしレヴィ=ストロースは言う。それはむしろ、人間の壮大な思考形式と言うべきである、と。

「自然科学は久しく、〔動物界・植物界・鉱物界という〕「界」を問題にしてきた。それらの界は、相互に独立し、自律的で、おのおのいくつかの固有の性質によって規定され、また互いに特別の関係をもつ存在または物体によって構成されているものであった。」

「いわゆる未開社会は、分類のさまざまなレベルの間に溝がありうるとは考えない。各レベルをそれぞれ連続的移行の一段階、一時期とみなしている。」

 自然科学が考える、動物界・植物界・鉱物界といった「界」は、よく考えてみれば、人間が恣意的に分類した「界」である。何もこの分類だけが絶対のものというわけではない。

 「野生の思考」もまた、自然をさまざまな方向から、さまざまな様式において分類する。

 それもまた、科学とは「分類」の仕方が異なっているだけで、人間的な分類であることに変わりはない。

 要するに、ここでもまた、トーテム(信仰される動植物)は概念というより意味を付与された記号なのである。

 科学的概念は、確かに、万人に共通する世界認識を担保しようという意味において便利な道具であるだろう。しかし他方の野性的記号もまた、それぞれの部族にとっては、世界の意味を豊かに理解するための便利な道具なのである。したがって問題は、どちらが絶対に正しい思考か、ではない。いずれの思考も、それぞれの社会における人間の目的を達成するために、十分磨き抜かれた思考形式なのである。



3.野生の思考と栽培種化された思考

 ここでレヴィ=ストロースは、科学的思考を栽培種化された思考と呼び、野生の思考と対比する。

「私にとって『野生の思考』とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率を長めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。」

 科学的思考は、現代人がどれほど全能な思考と見なそうとも、ある効率性と人間的共通性を追求するために、人間のより豊かな思考形式を限定した思考形式なのである。そしてこの思考形式は、人類史上、まだ出現して間もないものである。

 野生の思考は、人間の「象徴意欲」の現れである。それは、世界にさまざまな象徴的意味を読み取ろう、あるいは付与しようという、根源的な意欲が生み出した思考形式なのである。レヴィ=ストロースはそう主張する。



4.サルトル批判

 本書の最終章では、有名なサルトル批判が繰り広げられている。
 
 レヴィ=ストロースによれば、サルトルは、現代的な弁証法的理性こそが、未開の思考に対して優位なものであると主張する。

「サルトルはときに二つの弁証法を区別しようとしているように思われる。すなわち、歴史ある社会の弁証法である「真の」弁証法と、いわゆる未開社会に彼が認めながらも、生物学のすぐそばに位置づける反復的でかつ短期の弁証法とである。」

 未開人を、サルトルは「発育不全で畸形」の人間と呼ぶ。しかしレヴィ=ストロースは言う。それはあまりにひどい自文化中心主義である、と。

「それらの社会にせよわれわれの社会にせよ、歴史的地理的にさまざまな数多の存在様式のどれかただ一つだけに人間のすべてがひそんでいるのだと信ずるには、よほどの自己中心主義と素朴単純さが必要である。人間についての真実は、これらいろいろな存在様式の間の差異と共通性とで構成される体系の中に存するのである。」

 見てきたように、科学的な栽培種化された思考は、あくまでも人間的思考の一側面に過ぎない。人間は、また異なった形で論理的であるといっていい、「野生の思考」を持っている。

 このことを認識せず、現代的理性のみを特権化してはならない。レヴィ=ストロースはそう言って、サルトルを激しく批判したのだ。

(苫野一徳)



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