スミス『道徳感情論』

はじめに

 有名な『国富論』は、実はこの『道徳感情論』の副産物だったと言われている(スミス『国富論』のページ参照)。

 スミスの一貫したテーマは、利己心を持った人間が、いかにしてよりよい人間関係を築きうるか、というものだった。

 これを道徳の観点から考察したのが本書であり、経済の観点から考察したのが『国富論』というわけだ。

 利己心むき出しの経済活動と、利己心には収まり切らない人間の道徳感情を、いかに切り結ぶか。

 スミスの透徹した人間洞察が光る。

 しかし、スミスが一生をかけて改訂し続けた本書は、「あ、また人間本性について思いついた」という具合に書き足し書き足しされたからなのだろう、訳書下巻あたりになると、かなりだらだら感が漂っている(と私は思う)。

 思い切ってポイントだけまとめたら、本ページのようになるのではと思うので、参考にしていただければ幸いだ。

 暴走する資本主義(ロバート・ライシュ)の問題を抱える現代、改めて読み直されるべき名著といっていいだろう。


1.人間は本性的に「同感」の能力をもっている

「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、あきらかにかれの本性のなかには、いくつかの原理があって、それらは、かれに他の人びとの運不運に関心をもたせ、かれらの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも、かれはそれからひきださないのに、かれにとって必要なものとするのである。」

 有名な冒頭の一節。

 われわれは確かに利己的な生き物だ。しかしどういうわけか、他者の幸福や不幸に同感するという本性ももっている。完全に利己的な生き物というわけではないのだ。

 スミスはここから考察を開始する。

 スミスによれば、われわれが他者に同感できるのは、われわれに「想像力」が備わっているからだ。

「想像力によってわれわれは、われわれ自身をかれの境遇におくのであり、われわれは、自分たちがかれとまったく同じ責苦をしのんでいるのを心にえがくのであり〔後略〕」

 そしてこの想像力によって喚起される同感は、他者の境遇に向けられる。

「同感は、その情念を考慮してよりも、それをかきたてる境遇を考慮しておこるのである。」

 相手の気持ちを目の当たりにするだけでは、なかなか同感は起こらない。

 相手のおかれた境遇を目の当たりにしたとき、同感がかきたてられるのだ。

 本書全体を通して、スミスはあたりまえのことを言い続けているだけなのだが、それでも言われてみれば「なぁるほど」という言葉が多い。


2.人は他者からの同感を求める

 さて、われわれは他者に同感する能力を持つだけでなく、他者からの同感も、本性的に求めようとする。
と、スミスは同感についての考察を続ける。

 この場合、

「われわれは、自分の快適な情念よりも不快な情念のほうを、いっそう友人たちに伝達したがる。」

 なるほど、確かにそうかも知れない。なぜか。

「愛と歓喜という快適な情念は、なにも附随的な快楽なしにも、心を満足させ支持しうる。悲嘆と憤慨のにがく苦痛な情動は、同感の慰めによっていやされることをもっと強く必要とする。」からだ。

 なるほど、確かにそうかも知れない。快適な情念はそれだけで人を満足させるが、苦痛な情念は、人の同感を得て慰められたいと思うのだ。

 このあたり、スミスの人間洞察が光っていると言えそうだ。


3.人はどういうときに同感するか

 続いてスミスは、人が他者に同感するその条件は何か、と、考察を展開する。
それは、他者の感情の、原因と効果のバランスにある。

 大した原因でもないのに、感情を爆発させて大騒ぎする人に、私たちはなかなか同感できない。スミスは次のように言っている。

「どんな小さな原因によってももえあがる、つむじ曲がりで気まぐれな気質ほど、見下げはてたものもないのである。」

 なかなか舌鋒鋭い言い方だ。誰か具体的な人物を、頭に思い描いていたのだろう(笑)。

 スミスは続ける。
 
 人間は、他人のことを我がことのように思うというわけには、なかなかいかない。

「人類は、生まれながら同感的であるとはいえ、他人にふりかかったものごとにたいして、主要当事者を当然に興奮させるのとおなじ程度の情念を、けっして心にいだくことはないのである。〔中略〕かれら自身は安全だという考え、かれら自身はじっさいには受難者ではないのだという考えが、たえずかれらのじゃまをする。」

 だから同感を求める人は、相手が理解できるよう感情のバランスをとる必要がある。

「かれがこれを獲得することを望みうるのは、ただ、かれの情念を、観察者たちがついていける程度に、低めることによってなのだ。」

 なかなか面白い。確かにその通りと言えるだろう。


4.愛すべき、尊敬すべき徳

 以上のような理由から、尊敬すべき徳には2種類ある、とスミスは言う。

 人はそうそう他人に対して同感ばかりしていられるわけではないから、「率直な謙遜と寛大な人間愛の諸徳」を持った人は、尊敬すべき人と言えるだろう。

 また、人はそうそう他人に同感を求めてばかりはいられないから、「自己否定の徳、自己統御の徳」を持った人もまた、尊敬すべき人と言えるだろう。


5.人は他人の悲哀より歓喜のほうに同感する

 常識的には、人は他人の喜びより悲しみのほうに同感する、と、考えられている。

 しかしそうではない、とスミスは言う。

「この先入見にもかかわらず、私があえて主張したいのは、つぎのことである。すなわち、そこに嫉妬がないばあいは、歓喜に同感するわれわれの性向は、悲哀に同感するわれわれの性向よりも、はるかに強いということ、そして、快適な情動にたいするわれわれの同胞感情は、苦痛な情動にたいしてわれわれが抱くものよりも、主要当事者によって当然に感じられる情動のなまなましさに、はるかに近づく、ということである。」

 王の凱旋式を見てみればいい、とスミスは言う。

 なるほど、そうかも知れない。スポーツ観戦の経験など考え合わせても、これはなかなか言い得ている・・・ような気がする。

「反対に、われわれが、苦難のなかにあるわれわれの友人たちを慰めるばあいには、われわれはかれらが感じるところにくらべて、なんとわずかしか感じないことだろうか。」

 恥ずかしながら、これも言われてみればそんな気がする。

「自然は、われわれにわれわれ自身の悲哀の重荷を負わせたさいに、それだけで十分だと考え、したがって、他人の悲哀にたいしては、かれらを救済したいという気持をわれわれにもたせるのに必要であるよりも深くは、参与することを命じなかったように思われるのである。」

 何とも含蓄あるお言葉だ。

 私たちは、自分自身の悲哀だけでもう十分つらいのだ。他人の悲哀については、同感するにはするが、必要以上にはしないようになっている。むしろほしいのは喜びなのだ。

 だからこそ、スミスは言う。


「他人の苦難にたいするこの感受性のにぶさのために、大きな困苦のただなかでの度量が、つねにあのように、神々しいまでにおくゆかしく思われるのである。」



 マザー・テレサが神々しいまでにおくゆかしく思われるのは、こういう理由によるわけだ。


6.正義と慈恵について

 続いてスミスは、正義慈恵について比較考察する。おそらく本書で最も重要な箇所の1つだ。

 スミスは言う。慈恵は、すばらしい徳だがなくても社会は成立する。それに比べて正義は、これがなければ社会が成り立たない必要不可欠の徳である。

「慈恵はつねに無償であって、それは力ずくで奪いとられるものではありえず、それのたんなる欠如は、いかなる処罰にもさらされない。なぜならば、慈恵のたんなる欠如は、なにも現実的で積極的な害悪をもたらす傾向がないからである。」
「けれども、もうひとつの徳があって、それを守ることは、われわれ自身の意志の自由にまかされず、力ずくで強制されてもよく、それの侵犯は憤慨の、したがって処罰の的となる。この徳が正義であり、正義の侵犯は侵害であって、それは、否認されるのが自然な諸動機から、ある特定の人びとにたいして、現実的で積極的な害をなすのである。したがってそれは、憤慨の、そして憤慨の自然的帰結である処罰の、正当な対象である。」


7.称賛と非難について(良俗の一般的規則について)

 スミスの考察は、徐々に社会的な方向に進んでいく。

 われわれは他者からの称賛を欲し、非難を恐れる。ここから良俗の一般的規則が導かれる。そうスミスは言う。

「われわれは自然に、つぎのような一般的規則を、われわれ自身にたいして設定するのである。すなわち、われわれを、嫌悪すべきもの、軽蔑すべきもの、処罰すべきものとし、われわれが最大の恐怖と嫌悪をいだくすべての感情の対象とする傾向のある、すべての行為は回避されなければならない、ということである。」
 この一般的規則を常に考慮し、自らを律することができるかどうか。これが人間社会の肝となってくる。

「守るのがしばしばひじょうに困難で、蹂躙したくなる強い動機がひじょうに多くありうる、正義、真理、貞節、信義の諸義務〔中略〕、これらの諸義務をかなりよく守ることに、人間社会の存在そのものがかかっているのであり、もし人類が一般に、行動のそれらの重要な諸規則にたいする尊敬を刻印されていなかったならば、人間社会はこなごなになって消失するであろう。」

 それはどうすれば可能だろうか。スミスは直接は答えないが、次の一節はそのヒントと言いうるかも知れない。

「人間は自然に、愛されることだけでなく、愛すべきものであることを、すなわち、愛情の自然で適切な対象であることを、欲求する。かれは、自然に、憎悪されることだけでなく、憎悪すべきものであることを、すなわち、憎悪の自然で適切な対象であることを、恐れる。かれは、称賛だけでなく、称賛にあたいすることを、すなわち、だれによっても称賛されないとしても、それにもかかわらず称賛の自然で適切な対象であることを、欲求する。」

 人はただ愛されるだけでなく、愛されるに値する者でありたいと願う。

 ただ非難されるよりも、非難されるに値する者であることを恐れる。

 この感情をしっかり活用すれば、きっと社会は「正義」へと近づいて行く・・・。

 スミスはそんな風に考えていたのではないだろうか。


8.愛着と教育

 教育学の観点からは、見落とせないスミスの主張がある。

「愛着とよばれるものは、じっさいには、慣行的な同感にほかならない。」

 と、スミスは言う。そして次のように続ける。

「家族は、自然にこの慣行的同感をつくりだす境遇におかれるのがふつうであるから、かれらのあいだには、適切な程度の愛着が生じることが期待されている。」

 だからスミスは、次のように言う。

「公教育とよばれるものからなんとかしてひきだされうるどんな習得物も、それによってほとんど確実かつ必然的に失われるものにたいして、どんな種類のうめあわせもできないことばたしかである。家庭教育は自然の制度であり、公教育は人間の工夫である。どちらがもっとも賢明なものであるらしいかは、たしかに、いう必要がない。」

 本書の執筆は、フランス革命より前のこと(第6版は1790年だが)。

 無償、中立、義務(全員がその恩恵にあずかる)の、いわゆる近代公教育の理念が本格化する前のことだから、この箇所を読むときにはそのことを念頭に置いておく必要がある。


9.高慢と虚栄

 高慢虚栄についての考察もなかなか興味深い。

「高慢な人間は、真剣であり、かれの心の底では、かれ自身の優越性を確信しているのであって、ただし、ときには、その確信がなんにもとづくのかを推測することが、困難であるかもしれない。〔中略〕もしあなたがかれを、かれがかれ自身を尊重するのとおなじく、尊重するのではないようにみえるならば、かれはくやしがるよりも腹をたてるのであり、自分がじっさいの侵害をうけたばあいと同一の義憤的な憤慨を感じるのである。」

 高慢な人間は、自分が有能であることを本気で確信している。それに対して虚栄的な人間は、自分の有能さを信じていないからこそ、自分を有能であると信じさせたいと思う。

「虚栄的な人は真剣ではなく、あなたがかれに帰属させることをかれが願っている、その優越性を、かれが心の底で確信していることはほとんどない。かれがあなたにたいして願うのは、かれが自分をあなたの境遇におき、かれが知っているすべてをあなたが知っていると想定したときに、かれがかれ自身をほんとうにながめうるような色どりよりも、はるかにすばらしい色どりでかれをながめることである。」


10.道徳の論じ方

 以下、スミスは、古代ギリシャの道徳哲学、キリスト教的(利他愛の)道徳哲学、それからロシュフーコーやマントヴィルなど、放縦な道徳哲学について考察し、それぞれを批判する。もっとも古代ギリシャで批判されるのは、徳はそれ自身尊いものではなく、あったほうが快楽も増すという意味で尊いのだ、としたエピクロスで、比較的プラトンアリストテレスゼノンの道徳論には賛同しているようだ。

 しかしここではとりたてて取り上げる必要もないだろう。

 本書の最後で、「よい」道徳の論じ方とは何かについてスミスが語っているので、これを紹介しておおきたい。

 道徳の論じ方には、文芸批評家的なやり方と、文法学者的なやり方がある。そうスミスは言う。そしてスミスは、前者を評価し、後者を棄却せよと言う。

 私には非常に興味深かった。そしてスミスに同意する。

「第一の群のなかに、われわれは、古代の道徳論者のすべてをかぞえることができる。この群は、一般的なやり方でさまざまな悪徳と徳を叙述すること、そして、一方の性向のみにくさと悲惨さを、他方のそれの適宜性と幸福さとともに指摘することで、満足してきたが、すべての個別的なばあいに例外なくあてはまるべき、おおくの精密な規則を設定しようという意向には、なったことがなかった。」

 文芸批評家的道徳論は、何をわれわれは徳といいうるか、叙述するという方法をとる。まさにスミスが本書で展開した方法だ。他方文法学者は、諸徳に通底する絶対的法則をみつけようとする。

「第二の群の道徳論者のなかに、われわれは、中世およびその後の時代のキリスト教会のすべての決疑論者を、今世紀および前世紀においていわゆる自然法学をとりあつかってきたすべての人びととともに、かぞえていいのであって、かれらは、かれらがわれわれに推薦したいと思う行動の行程を、このような一般的なやり方で特徴づけることに満足せず、われわれのふるまいのあらゆる事情の方向づけにたいして、厳密で正確な諸規則を設定しようと努力する。」

 しかしスミスは言う。

「当然なすべき外的諸行為がなんであるかを決定するための精密な諸規則も、したがって、それらの徳がそういう約束の遵守と両立しないのはどのばあいであるかを決定するための精密な諸規則も、われわれはもたない。」

 なぜか。

「秘密と抑制が、しらばくれに転化しはじめるのは、いつであるか。快適な皮肉はどこまでおしすすめていいのか、そして、正確にどの点でそれは、嫌悪すべきうそに堕落しはじめるのか。ふるまいの自由と気楽さが、品位があって適切であるとみなされうる最高限度はなにか、そしてそれがはじめて、放漫で無思慮な放縦におちいりはじめるのは、いつであるか。すべてのそういう事柄にかんして、なにかひとつのばあいにあてはまるだろうものが、他のどんなばあいにも厳密にあてはまるということは、めったにないだろう。」

 実に的確な指摘だと思う。だからスミスは、次のように文法学者的道徳論を一笑に付すのだ。

「決疑論者たちの諸著作については、一般に、気分と感情だけが判断すべきものを正確な諸規則によって指導しようと、役にたたない企てをしたといっていいだろう。」

 ちなみに同時代のカントは、絶対的道徳法則を樹立しようとがんばった。意気込みはすばらしいが、非現実的な企てだったと言っていいだろう。その点スミスのほうが、バランス感覚に富んでいたような気がする。

 また上記引用は、現代の分析哲学批判としても読むことができそうだ。

 なすべき道徳的行為とは何か、その言葉の意味をどれだけ丹念に分析したところで、精密な規則など見出せない。

(苫野一徳)



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