レーヴィット『共同存在の現象学』

はじめに

Löwith フッサールに師事し、その後ハイデガーの直弟子となったレーヴィット。

 ハイデガーがフッサールを批判したように、レーヴィットもまた、ハイデガーを批判した。本書は、ハイデガーの『存在と時間』を継承しつつ、これを根底的に批判するものだ。

 博士論文としてハイデガーに提出されたが、ハイデガーはどうもかなり困り果てたらしい。

 しかしそれでもなお、自分の思想に合うように変更を求めるのでなく、弟子の渾身の力作をひとまずは認めようとしたハイデガーの態度は、真摯なものだったと言えるかも知れない。

 とは言え、私は本書の主張の原理性を、残念ながらほとんど認めることができない。フッサールやハイデガーの功績からしてみれば、彼らの到達点を推し進めるどころか著しく後退させたと考えている。

 現象学的分析の筆致もまた、現象学的記述の名人であるハイデガー、サルトル、レヴィナスなどには到底及ばない。

 以下、本書を批判的に散歩してみたい。


1.本書の目的=共同存在としての人間理解と倫理の基礎づけ

「分析のとりあえずの成果として示すことができるのは、人間的な個体が『ペルソナ』という存在のしかたを有する個体であり、本質的に、共に在る世界に由来する「役割」をおびて現実存在していることである。」

 人間は必ず他者と共に、他者に対して存在している。すなわちまずもって共同存在である。これが本書を貫くテーゼだ。そしてレーヴィットは言う。このそもそも共同存在であるわれわれにとっての倫理とは何か。

「ここからただちにあきらかになるのはまた、『人間学的基礎づけ』がどの程度まで『倫理学的』諸問題の基礎づけとなるかということである。」

 こうしてレーヴィットは、われわれはどのように他者と共にあるか、そして、その際の倫理とはいかなるものであるかを探究し始める。


2.フォイエルバッハの継承

 まずレーヴィットは、フォイエルバッハの2つの原理を継承することから始める。1つは感覚主義、もう1つは他者中心主義である。

 感覚主義は、次のように説明される。

「感性の本質として人間に当てはまるのは、いわゆるその『主観性』ではない。それどころか『客観性』なのである。〔中略〕その本質からすれば、感覚とはつねにみずからの外にあるものであり、客観をもとめるものである。」

 そして他者中心主義は、次のようである。

「いっさいの『私は考える』は、しかしながらすでにひとりの〈きみ〉を前提し、一般には一箇の客体を前提している。」


3.レーヴィットを批判する

 ここで早々に、レーヴィットを批判しておくことにしたい。
 上記からも分かるように、レーヴィットは近代的主観主義からの脱却を欲している。しかしそれは、現象学が解明した認識論的到達点からすれば、致命的な後退であったことを論じておきたい。

 このサイトでも繰り返し、近代哲学の大きな問題圏が主観–客観問題であることを述べてきた。われわれはどのようにして、客観世界を正しく認識することができるのか。これが、近代哲学者たちの大きな問いだった。

 しかし近代哲学者たちは、その結果、きわめて重要な事柄に気がついたのだった。

 われわれは絶対的客観をそのままに認識することはできない。むしろ一切は、主観における「確信」であるほかない、と。ヒュームカント、そしてフッサールといった哲学者たちが、こうした認識論を完成させてきた。

 しかしこれが同時に、今度は主観主義として批判されるようにもなった。
 それは他者をないがしろにする思想である、それは独我論である、等々の批判である。

 レーヴィットもまた、現象学をこうした主観主義から脱却させようと考えたのだと言っていい。

 さて、しかしこの主観主義批判は、実はそれまでの認識論の成果を大きく後退させるものと言うほかない。

 たとえば先ほどの「感覚主義」だが、これは平たく言うと、われわれが「感覚」を持っている以上、感覚対象が外に存在し、これがわれわれを刺激するのだという考えだ。レーヴィット自身言うように、これは客観性を前提とした考えである。

 しかしこれは、すでにフッサールによって厳しく批判されていた考えだ。

 感覚対象が外部に絶対に実在しているのか、われわれは決して知ることができないからだ。何度も書いてきたが、目の前のペンが、目に見えるそのままに絶対的に存在しているかどうかは分からない。犬や魚が見たペンは、また違って見えるに違いない。それどころか、極端に言えば、今目の前に存在していると思っているものが、夢ではないという保障はどこにもない。外部実在はどこまでも懐疑可能なのだ。

 しかしそれでもなお、何かが「見えてしまっている」という主観的確信は疑えない。だから、なぜ私はこれが「見えてしまっている」と確信できるのか、その確信成立の条件を、主観の内側から確信構造として取り出し記述しよう。それが、現象学がいわば究め尽くした認識論的到達点だったのだ。

 「客観性」や「他者」を、主観に先立つものとして措定してしまったレーヴィットは、したがって致命的な認識論的後退に陥ってしまっているわけだ。


4.現存在とは共同存在である

 しかしともあれ、先に進むことにしよう。

「人間的な現存在はそれが『世界のうちに在ること』によって規定され、世界内存在は他方『共に在ること』により規定されている。本来的な共同存在はさらに互いに共に在ることを意味し、共同相互存在はまた『共に生きること』と同義である。」

 現存在(人間)とは、そもそも他者と共にあることによって規定されている存在である。そうレーヴィットは言う。

 しかしこの記述も、細かく言えば実は大きな問題だと言わなければならない。他者と共にあるということは、あくまでも確信なのであって、そもそも共同存在であるという記述は、まるで絶対の事実であるかのような書き方であるからだ。

 フッサールは、事実学本質学によって基礎づけられなければならないと言った。
 つまり、何が「事実」であるかに絶対はない、それはあくまでも確信なのであって、その確信を確信たらしめる本質的条件は何か。これを問う必要があると言ったのだ。

 レーヴィットはここでも、現象学の本領をつかみ切っていない。


5.フォイエルバッハ批判

 さて、先にフォイエルバッハを継承したレーヴィットだが、ここへ来て彼は、そのフォイエルバッハを批判することになる。ポイントは簡明だ。

 フォイエルバッハにおいては、〈私〉と〈きみ〉とが結合されていないのだ。

 レーヴィットは言う。われわれにとって重要なのは、この〈私〉と〈きみ〉の関係性を問うことである、と。

 そこでレーヴィットは、相互の次のような関係性を指摘する。

「直接的な〈相互に対する存在〉にぞくする、こうしたいっさいの関係にあっては、だから、両者のいずれの側も自己固有の者として規定されない。互いに帰属する者として規定されるのだ。にもかかわらず、ただ直接的な〈相互に対する存在〉という関係からのみ、そしてそうした関係にとってだけ、各人がじぶん自身にそくして真に自立的であること(《私自身》と《きみ自身》であること)が、それぞれ関係をはなれた現存在であることを相互に承認しあうかたちで展開される。」

 〈私〉は他者との関係から切り離されては〈私〉たり得ない。
 しかしなお、〈私〉は他者とは切り離された存在である。

 これが〈私〉と〈きみ〉の関係の本質であると、レーヴィットは言う。それは原理的な両義性なのだ、と。


6.倫理の基礎づけ

 上記の人間関係論を基礎に、レーヴィットは倫理とは何かを問う。

 しかしここへ来て、レーヴィットは自分の思想を展開するというよりは、ほとんどが他の哲学者の学説検討に終わっている。カントを評価し、ヘーゲルを批判する。(ちなみに彼のヘーゲル批判は相当に的外れだと私は考えているが、ここでは省略する。)シェーラーエプナーゴーガルテンといった哲学者たちを批判的に検討する。ディルタイをある程度継承する。

 結局レーヴィットの考えのポイントが何なのか、いまいち分かりにくいが、おそらく次の引用が重要だろう。

 まずはディルタイを検討しての言葉。

「一者の根源的な自立性は、他者によって自由に承認される。〔中略〕このことは、同等な『自己目的』である他者を自由意志にもとづいて『尊敬』することであるが、この尊敬は、しかしア・プリオリに義務として与えられているものではない。『自然的な』生の経験に由来する『人倫的』な成果なのである。」

 要するに、これまでの記述から他者の重要性が理解されれば、われわれはその経験を通して、他者を自らの自由意志によって尊敬することができる、というわけだ。

 あるいはカントを評して、次のようにも言っている。

「人間を自己目的として認識することが有する道徳的な意義は、したがって、だれも他者に対して――各人は他者をじぶん自身と同様な人格として承認し、人格にはじぶん自身みずからの目的を定立する自由があるのだから――じぶんの使用の目的として交渉しない、という点に存する。各人は私自身と同様の存在様式とその尊厳を有し、私と同等な存在者なのだから、私自身は各人と同等な者であり、私たちは相互に尊敬しあうことを義務づけられている。」

 カントの有名な、他者を手段としてでなく目的として扱え、ということを言っているわけだが、レーヴィットの結論も、どうやらそういうことであるらしい。

 カント以降の哲学的人間学の進展を考えれば、人間関係の洞察として、きわめて浅薄な結論というほかないように私は思う。

 結局のところ、自らの意志で他者を大切にしましょう、と言っているだけなのだ。

 ヘーゲルは、そんなことは綺麗事にすぎないとすでに言っていた。
 重要なのは、他者と承認−了解関係を作れるその条件は何か、という問いであって、他者を大切にしましょうなどと言うことではない。

 私もまた、このヘーゲルの問いの立て方こそ原理的であり、そして現象学は、本来こうした問いを探究するのに、最も適した方法であったはずだと思う。

(苫野一徳)


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