ブルデュー&パスロン『再生産』

はじめに

 今日ではもはやほとんど自明のこととなった、教育による階層再生産という現象。

 ブルデュー(とパスロン)は言う。教育とは実は支配階層による支配のためのシステムであり、学校は支配階層の文化を押しつけることで、ここに入り込める者と入り込めない者を選り分け再生産しているのだと。

 支配階層に入り込めるかどうかは、実は結局のところ生まれの階層によっている。学校は、表向き平等であるかのように作られているものの、支配階層の文化を押しつけることで、実は結局支配階層の子どもしか社会上層部へと進めないように作られているのである。

 そしてこのような暴力性は、巧みに隠蔽されている!

 ボウルズ=ギンタスフーコーイリッチなど、教育の暴力性・権力性を暴きだした同時代の学者は多い。そして本書が出版された1970年前後、およびそれ以降、こうした教育の隠蔽された暴力性を暴きだす研究は、文字通り山のように蓄積されていく(ボウルズ=ギンタス『アメリカ資本主義と学校教育』フーコー『監獄の誕生』イリッチ『脱学校の社会』のページ参照)。

 そうした潮流の嚆矢をなしたものとして、本書の名声が消えることはないだろう。

 しかし同時に、階層再生産という視点がもはや自明のものとなった現代、その暴露・告発ばかりを続ける研究の数々に、私はずいぶん食傷気味だ。

 現代、ステージはさらに一段上がっているはずだ。教育における階層再生産の問題があるとするなら、では私たちはいかにこの問題を乗り越えていくことができるだろうか。

 今英知を結集すべきは、告発よりはむしろそうしたアイデアの提示であろう。


1.本書で用いられる略記号

 まず、本書で用いられている略記号を確認しておこう。

AP  教育的働きかけ action pédagogique
AuP  教育的権威 autorité pédagogique
TP  教育的労働 travail pédagogique
AuS   学校的権威 autorité scolaire
SE  教育システム Système d’enseignement
TS  学校的労働 travail scolaire


2.教育における隠蔽的な暴力的権力

 本書で主張される公理は、次のようである。

「およそ象徴的暴力を行使する力、すなわちさまざまな意味を押しつけ、しかも自らの力の根底にある力関係をおおい隠すことで、それらの意味を正統であるとして押しつけるにいたる力は、そうした力関係のうえに、それ固有の力、すなわち固有に象徴的な力を付けくわえる。」

 これを分かりやすく言うと、次のようになる。

 教育とは、結局のところ支配階層による支配のためのシステムである。

 つまり教育は、上位階層の人々が自分たちの階層を再生産するために、そして、下位階層の人々を排除するために作られているものなのである。

 しかしそのような暴力性は、隠蔽されている。教育はこの暴力性を隠蔽するような仕方で、その影響力を行使しているのである。


2.AP(教育的働きかけ)について

 こうしてブルデューとパスロンは、先に挙げたAP〜TSの1つ1つについて分析を企てていく。

 まずAP(教育的働きかけ)について、2人は次のように言う。

「およそ教育的働きかけ(AP)は、恣意的な力による文化的恣意arbitraire culturelの押しつけとして、客観的には、ひとつの象徴的暴力violence symboliqueをなすものである。」

 教育的な働きかけというのは、支配階層の都合を押しつけるものにほかならないというわけだ。

 そしてその暴力性は、先述したように隠蔽されている。

 ここでブルデュー(とパスロン)は、「文化資本」という重要な概念を提起する。

「文化資本とは、種々の家族的APによって伝達されてくるもろもろの財のことで、文化資本としてのその価値は、支配的APの押しつける文化的恣意と、それぞれの集団または階級のなかで家族的APを通して教えこまれる文化的恣意との距離によって決まってくる。」

 文化資本とは、ありていに言えば、各家庭における文化度のことと考えていいだろう。料理のマナー、クラシック音楽のたしなみ、言葉の使い方などがそれに当たるが、そうした文化資本は階層によって異なっている。

 ブルデュー(とパスロン)は、学校文化(支配階層の文化)とこの各家庭における文化資本とが似通っていればいるほど、その子どもは社会上位に選抜されていくと主張する。逆に言えば、学校文化から遠い文化資本のもとに育った子どもは、そもそもにおいて社会的成功の機会にかなりの程度閉ざされている。


3.TP(教育的労働)について

「教育的労働とは、持続的な組織、すなわちハビトゥスhabitusを産出するようじゅうぶん持続して行われるべき教えこみの労働のことであり、ハビトゥスは、APが作用しなくなっても存続できる、それゆえ慣習行動において内面化された恣意の諸原理を存続させることのできる、文化的恣意の諸原理の内面化の所産である。」

 TP(教育的労働)とは、先のAP(教育的働きかけ)の内面化の作業のことである。
 子どもたちは学校において、支配階層の恣意的な文化を押しつけられ、そしてそれを徐々に内面化していく。

 こうしてAPは、それがなくなった後もなお、子どもたちの中に内在し続けることになる。


4.SE(教育システム)について

「制度化された教育システムにおいては、一定の制度的諸条件が存在し存続すること(制度の自己再生産)が、自らの教えこみの機能の行使にとっても、文化的恣意の再生産(文化的再生産)の機能の達成にとっても必要であるが、そうした制度的諸条件を、同システムは、制度に固有の手段をもちいて生産および再生産しなければならない。」

 これまで述べてきたAP(教育的働きかけ)やTP(教育的労働)は、SE(教育システム)によっていわば完成される。つまり制度化されることで、支配階層の恣意の押し付けは、永続化されるわけである。

 それはたとえば、同質の教師、同質のカリキュラム、同質の教え方を開発することにある。

SEは、TS(学校的労働)の同質性と正統性のための制度的条件を保障しなければならないから、教育を担当する者に、同質的な教育をほどこし、同質化されかつ同質化を押し進めるもろもろの手段をさずけようとする。」


4.言葉遣いによる選別と排除

 以上を踏まえた上で、ブルデューとパスロンは次のように主張する。

 教育とは結局、支配階層の恣意的文化を子どもたちに押しつける過程で、支配階層の子どもたちのみを選抜し、そうでない子どもたちを排除するシステムなのである、と。

 たとえばそれは、言葉遣いにおいてさえ顕著に見られるものである。

「フランスのシステムは、文学的能力、もっと正確にいうと、文学的経験をはじめいっさいの経験を文学的なことばにつくり変える能力に、並々ならぬ価値をあたえていて、要するにそれが、パリの生活のように、文人的生活――しばしば科学者の生活も――のフランス的な生き方を規定している。」
「これを適切にあやつることができるのは、家族集団のなかで親しむことによって得られた〔このことばの〕実際的習得を、学校のおかげで、ほとんど学者的にあやつる二次的段階の能力へと変換できた者にかぎられる。」


5.試験による選抜と排除

 2人はまた、フランスの教育における試験の暴力性を告発する。

「形式上は非の打ちどころのない排除は、合格者と不合格者を対照づけることで、受験者と受験者の数からすでに事実として排除されてしまっている著すべてとの関係をぼやかし、学校システムと階級関係構造のつながりを隠蔽してしまい、そうすることで、学校システムの機能が成就されていることをおおい隠すのである。」

 試験は、一見万人に公平なものであるように見える。しかの本来的な機能は、成績の差が実は階層の違いに由来するのだということを隠蔽し、排除された子どもたちに、自分の能力や努力が足りなかったのだと思い込ませることにある。

「学校の判決とそれが正統化する社会的ヒエラルヒーを承認するように万人に仕向ける試験、これほど巧みにつくられているものもない。なぜなら、試験は、少数の選ばれた者からさらに選ばれた者が、その選抜を、とにかく、他者にましてかれらを選好させたにちがいない能力ないし「天与の才」の証しとみなすことを許しながら、試験で排除される者には、これを失敗者と同一視するようにさせるからである。」

 こうして2人は、次のように言う。

「教育システムのもっとも眼にふれにくい、もっとも特徴的な機能は、その客観的な機能を隠蔽すること、すなわち階級関係構造へのその関係の客観的事実をおおい隠すことにあることになる。」

(苫野一徳)

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