フッサール『イデーンⅡ』

はじめに

Edmund Husserl 1910s.jpg 『イデーン現象学的方法のあらましを述べたフッサールは、本書において、「自然」や「精神的(人間的)世界」が現象学的にどのように分析されうるかを明らかにする。

 特に第3篇「精神的世界の構成」には、後のハイデガーメルロー=ポンティにも継承されるアイデアが目白押しだ。

 いや、この未公刊の著作を読むことのできた弟子ハイデガーは、フッサールのアイデアをほとんど盗用したのではないかとさえ私には思える(もっともハイデガーは、本書で展開されるフッサールの実存論をより見事な言い方で編み直したのだけれど)。

 以下では、この第3篇におけるフッサールの人間論を、しばし味わってみることにしよう。


1.自然主義的な世界と人格主義的な世界

 自然主義的な見方によれば、世界も人間も、機械的な物理的対象である。つまり、ある因果法則によって動くたんなる物質である。

 しかしそうした因果法則や物理的対象の絶対的実在性は、決して分からない。見えている世界が絶対の実在の世界かどうかは分からないし(私は夢を見ているのかもしれない)、因果法則も、それが絶対の法則かどうかは、最後の最後まで決して確かめることができないからだ。
 
 それゆえ『イデーン』では、こうした自然(主義)的態度のエポケー(判断中止)が説かれたのだった。

 こうした自然主義的見方に対して、私たちにはもう1つの世界の見方がある。

 「私にとっての世界」がそれである。

「環境世界は世界《自体》ではなく、《私にとっての》世界であり、まさにその世界の自我主観の環境世界、〈彼によって経験され、あるいはその他の仕方で意識されて、彼の志向的な諸体験の中でそのつどの意味内実を伴って措定される世界〉である。」

 フッサールからすれば、こうした世界理解の方がいわば第一次的である。世界はそれ自体として絶対的に実在しているのではなく、常に「私にとっての世界」という仕方で立ち現れる。いわゆる客観世界は、この「私にとっての世界」が、他の主観との間で共通に確信された世界のことである。

 フッサールは次のように言う。

「〈他者を経験して、相互理解と合意によって構成される環境世界〉のことをわれわれは意思の通じあう(kommunikativ)環境世界と呼ぶ。」

 絶対的な客観的世界などはない。私たちがそう呼んでいるものは、どこまでもこの意思の通じ合う環境世界のことなのである。


2.主観における動機づけ

 以上のように、客観世界それ自体の理念が背理であり、世界は常にすでに「私にとっての世界」であるとするなら、世界に立ち向かう私たち自身についての認識も、考えを改める必要がある。

 自然主義的見方によれば、「世界」と「私」は「刺激」「反応」の関係にある。物理的対象が私に刺激を与え、それに物理的に反応するのが私であるとされる。

 しかし、私とはそのような単純な刺激ー反応機械ではない。私たちの体験をよく内省してみるならば、私たちは世界に対して、自ら志向的にかかわっているのである。

 これをフッサールは「動機づけ」と呼ぶ。

「それゆえわれわれの見解では、精神的または人格的な自我とは志向性の主観のことである、と理解すべきであり、そして動機づけこそが精神生活の法則性である。」

 たとえば誰かを人間として認識する時、私たちは、「あの人は人間だ」という物理的刺激を受け取りそれに反応しているわけではない。私たち自らが、相手に「人間」の意味を志向的に読み取っているのだ。

「或る事物を人間として(もっと詳しく言えば、話したり、読んだり、踊ったり、腹を立てて暴れたり、弁解したり攻撃したりする人間として)統握するということは、〈現出している物体的な対象性の多様な、しかし顕著な諸契機を生化して、その一つひとつに意味を、すなわち心的な内容を与え、そしてさらに、すでに生化されている個々の諸部分を、それぞれの意味に伏在する諸要求に応じて、それらよりも高次の統一体へ結合し、そして最後に人間といぅ統一体へ統合する〉という仕方での統握である。」


3.諸能力の主体としての自我

「統一体としての自我は《私はできる》の一つの体系である。」

 これは、ハイデガーメルロー=ポンティなど、後に実存論的に展開される現象学の先駆けともいうべきフッサールの洞察だろう。

 私は世界を、「私は〜できる」「〜できるだろうか」という相において認識している。

 古代人にとって、大空は空想をめぐらせる舞台であっただろう。
 今や空を飛べる、また空で遊ぶことができる私たちにとって、それは移動の空間、遊びの空間として認識される。

 世界は私たちの能力に相関的に立ち現れるのだ。

「動機づけ、ないしは有効な動機は同じだとしても、しかしさまざまな動機の力はそれぞれ異なっている。例えば誰にとっても青年期における感性の権能は老年期とはまったく別である。」

 こうして本書では、世界が徹頭徹尾私たちの人間精神に相関して立ち現れることが描かれる。「もしもわれわれがすべての精神を世界から抹消すれば、もはや自然は存在しない」のである。


(苫野一徳)


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