カッシーラー『人間』

はじめに
 
 哲学はもちろんのこと、美学、文学、科学、数学、言語学にいたるまで、とにかく人間知性についての歩く百科事典のようなカッシーラー。

 単なる博学、というわけではなく、自らの哲学理論をしっかりと作り上げた、一流の思想家だ。

 人間の認識は徹頭徹尾「シンボル(象徴)」的である。本書において、カッシーラーはそう主張する。
 たとえば「コップ」を、われわれは、単なる物体としてではなく、「飲み物を飲むためのもの」の「シンボル」としてとらえたり、誰かに襲われたときなら、「武器」の「シンボル」としてとらえたりする。

 つまり、われわれは必ず何らかの「意味」とともに世界を認識しているのだ。

 このような考えは、実は一世代前の現象学がかなり綿密に論じたものでもある。

 シンボル的動物である人間にとって、人間文化とはどのような「意味」をもったものなのか。本書では、さまざまな人間事象の本質観取がなされている。


1.人間に関する洞察をどう得るか
 
 本書第1部のタイトルは、「人間とは何か」。人間について、いったいどのように考えれば深い洞察が得られるだろうか。

「以前のどんな時代も、人間性に関する知識の源泉を探るという点については、今日ほどの条件に恵まれていなかった。心理学、民族学、人類学および歴史学は山なす事実――驚くほど豊富で常に増大の一途をたどっているような――を集積した。観察および実験の装置は限りなく改善され、我々の分析はますます鋭利となり、深刻となった。とはいえ、我々は未だこの材料を支配しこれを組織する方法を見出していないように思われる。〔中略〕我々が、この迷路から我々を導き出すアリアドネの道しるべを見出すのに成功しないかぎり、人間文化の一般性格についての真の洞察をもつことはできない。」

 20世紀、人文社会科学は急速な進歩を遂げた。しかし、知識が豊富になる反面、これらをどのように捉えれば「人間」をより深く洞察できるようになるのか、その方法はいまだ見出されていないとカッシーラーはいう。


2.人間はシンボルの動物
「人間は、『物』それ自身を取り扱わず、ある意味において、つねに自分自身と語り合っているのである。」
「だから、人間をanimal rationale(理性的動物)と定義する代りに、animal symbolicum(シンボルの動物――象徴的動物)と定義したい。このように定義することによって、我々は人間の特殊の差異を指示できるのであり、人間の前途にひらかれている新たな道――文明への道――を理解しうるであろう。」

 先述したように、人間の認識は、いつも己にとっての「意味」とともになされている。われわれの認識は、徹頭徹尾「シンボル(象徴)」的なのだ。カッシーラーは、この洞察こそが、人間事象を分析する最も深い視点になると考える。

「人間の認識は、その本性上、シンボル的な認識である。この特性こそ、認識の力とその限界をともに特徴づけているものなのである。〔中略〕シンボルは、なんら物理的世界の部分として現実の存在をもたない。ただ、それは『意味』をもっているだけである。」

 たとえば、物理的物体としての「椅子」それ自体などはない。それはいつでも、「座るもの」とか、「高いところにあるものをとるためのもの」とか、必ず「意味」をもっている。

 では人間は、さまざまな人間事象をどのような「意味」の相において捉えているのか。それを探るのが、本書後半の課題である。


3.芸術とは何か

 第2部のタイトルは、「人間と文化」

 神話、宗教、言語、芸術、科学など、人間文化のさまざまな諸相を、シンボル形式において捉えるのが課題だ。ここではそのなかから、芸術についてのカッシーラーの記述について触れておこう。

「他のすべてのシンボル形式と同様、芸術はただ、既成の、与えられた現実の再生ではない。それは物および人間生活に関する、客観的な見解に至らせる方法の一つである。それは模倣ではなくて、現実の発見である。」

 芸術とは、自然の単なる模倣ではなく、それを豊かなシンボルとして表現することで、現実をより豊かに洞察させてくれるもののことだ。カッシーラーはそのようにいう。

 たとえば、われわれはゴッホによってはじめて「ひまわり」を知った、などと言われる。

 芸術は、われわれの日常や現実に新しい「意味」を与えることで、この日常を豊かにしてくれるものなのだ。


4.歴史とは何か

 続いてカッシーラーは、「歴史」とはどのような「意味」「シンボル」をもったものか考察する。

 面白いのは、彼が芸術と歴史の類似性について述べている点だ。それはどちらも、「生産的想像力」の行為だと彼はいう。歴史とは常に「解釈」だから、それはまさにシンボル的意味として、生産的に読み解かれるものなのだ。

 しかしそうはいっても、もちろん歴史と芸術は違う。

「歴史学者は、真理を求めつつ、科学者と同じ厳格な規則によってしばられているのである。彼は、あらゆる経験的探究方法を利用しなければならない。彼は、あらゆる利用可能な証拠を集めて、すべての出所を比較し、批判しなければならない。彼は、どんな重要な事実をも、忘却したり無視したりすることを許されない。」


 歴史とはどれだけシンボル的意味の解釈だといっても、それはかなり厳格な証拠に基づいたものである。カッシーラーは次のようにいう。

「芸術は、一種の錬金術的過程によって人間生活の理想的記述を行うのであり、それは、経験的生活を純粋形象のダイナミックに転ずるのである。歴史は、このような方法で進行しない。それは、事物の経験的現実を超えてゆくのでなく、この現実を回想によって理想化し、この現実を新たな形態につくり直すのである。」

 芸術がかなり自由な「創造」であるのに対して、歴史は事実的現実を用いて、それを新たなシンボルとして創造的に解釈されるものなのである。

(苫野一徳)



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