フーコー『言葉と物』

 

はじめに

 フーコーの超博学を、これでもかというほどに見せつけてくれる知の玉手箱のような本書。

 難解で知られる本書だが、テーマは実は単純だ。

 ヨーロッパの知は、そのあり方を歴史的にどのように変貌させてきたのか。そしてそれは、今後どのように展開するのか。

 知の歴史を一通り繙いて見せた後、フーコーは本書の最後で人間の終焉を宣言する。それは言わば、近代諸学問における人間中心主義の批判である。

 後に『監獄の誕生』などで描き出されるのは、人間を主題とする人文諸科学が、権力と結びつき、人々を都合のいいように操る知になっていることだった(『監獄の誕生』のページ参照)。

 フーコーは、そうした人間を操る知を探究することをやめて、われわれを規定しているもの(無意識や権力や社会構造など)を探究すべきだと考えた。そして彼自身、その後、われわれを操作している、自覚されていない「規律的権力」や「生−権力」を暴きだして行くことになる。

 しかし私は、本書を代表とするフーコー40代の頃の一連の著作には、2つの点においてあまり説得力を感じることができない。

 1つは、フーコーが本書などで描き出すヨーロッパのエピステーメー(知のあり方)の変化が、あまりにも「実在」的に描かれすぎている点だ。

 フーコーが主張するほどに、その変化は絶対的事実として起こってきたのか、フーコーの書き方からは検証が難しい。むしろ私の考えでは、フーコーの見方は関心相関的な仮説的見方として自覚的に捉えた方がいい。

 もう1つは、「人間の終焉」という結論に至る根拠が、いまいち分かりにくいという点だ。

 先述の観点からすると、フーコーはまさに、「人間の終焉」を唱えるという関心のために、西洋のエピステーメーの歴史を彼なりにまとめ上げたのではないかという気がする。

 彼は本書で、「人間」が登場してきたのはつい最近のことに過ぎないと主張する。

 しかしだからと言って、それが近い将来の人間の終焉を予言する根拠にはならないだろう。むしろ、これからまさに「人間」の時代が本格化するのだ、と言うことだってできるかもしれない。

 実際フーコーは、晩年になって少しずつ、「人間」へと思索の対象を変えていくことになる。(『性の歴史』のページ参照)。

 人間を規定するものを探究しながらも、そこにおいてわれわれ「人間」はどのようによりよい社会や生き方を作り上げていくことができるか。私はこの問題こそ、現代の哲学が問うべきテーマであると考えている。結局のところ、問題を発見し解決しようとするのは「人間」以外にあり得ない。

 常に過去の自らの思想を乗り越え続けたフーコーは、しかし残念ながら、ついにこのテーマを探究し尽くすことなく50代で亡くなった。

 後続世代が引き継ぐべき課題である。


1.16世紀までの知のあり方

 フーコーは言う。16世紀、ルネッサンス末までの西洋における知のあり方(エピステーメー)は、相似にあったと。

 細かく言うと、相似には適合、競合、類似、共感、の4種類がある。

 要するに、これとこれは似ている、というのが、当時を支配する認識のあり方だったという訳だ。たとえばこんな感じだ。

「世界は万物の普遍的『適合』である。水のなかには、地上における動物や、自然や人間が創りだした品物とおなじ数だけの魚がいる」

 地上には地上の動物がいて、水中には水中の生物がいる。したがって、地上と水中とは互いに適合関係にある、という訳だ。

 あるいは次のような例も挙げられる。

「星とそれが輝いている空との関係は、革と大地とのあいだにも、生物とそれが住んでいる地球とのあいだにも、鉱物やダイヤモンドとそれが埋まっている岩石とのあいだにも、感覚器官とそれが生気をあたえている顔とのあいだにも、皮膚のしみとそれがひそかにしるしづけている身体とのあいだにも、認められるであろう。」

 一切をアナロジー関係で認識すること、それがこの時代のエピステーメーだったのだ。



2.世界は解読されるべき記号体系

 一切がアナロジーで結ばれ合っているということは、そこには多種多様で無限の意味が読み取れるということを意味している。したがってこの時代の知は、アナロジーの意味を読み取り記号として捉え直すという、解釈学記号学が支配することになる。

「知に固有なものは、見ることでも証明することでもなく、解釈することなのだ。」



3.解釈から秩序へ

「十七世紀初頭、ことの当非はべつとしてバロックと呼ばれる時代に、思考は類似関係の領域で活動するのをやめる相似はもはや知の形式ではなく、むしろ錯誤の機会であり混同の生じる不分明な地域の検討を怠るとき人が身をさらす危険なのだ。」

 ルネッサンスまでの知のあり方は、合理的な立場からすれば、全く関係のないものまでアナロジーによって結び合わせるいわば「錯誤」「混同」の知であった。

 17世紀以降、そうした知のあり方に代わる、新たなエピステーメーが現れてくる。

 その象徴を、われわれはセルバンテスの『ドン・キホーテ』に見ることができる。フーコーはそう主張する。

 風車を邪悪な巨人と思って突撃していくドン・キホーテの認識は、いわば16世紀的アナロジーである。しかし17世紀、このドン・キホーテの認識は、もはや狂人の認識だと考えられるようになっていた。

 確かな認識は、アナロジーではなく「秩序」になったのだ。

「いまでは、あらゆる相似は比較という吟味にかけられる。すなわち、相似は、計量と共通の単位によって、さらに根源的には、秩序と同一性と相違の系列とによって、ひとたび発見されたうえ、はじめて容認されるというわけである。」



4.マテシスとタクシノミア

 ここで登場してくるのが、マテシス(相等性の学)とタクシノミア(諸存在の学)である。

「《マテシス》は、相等性の学、したがって主辞=属辞関係定立と判断の学であり、《真理》の学であるのにたいして、《タクシノミア》は、同一性と相違性を扱うものであり、分節化と分類階級の学、《諸存在》に関する知なのである。」

 要するに、マテシスは代数学に代表される学であり、タクシノミアは分類する学である。

 一切を秩序化する知が現れたのだ。

 古典主義時代のエピステーメーは、この2つを基礎として発展することになる。そうフーコーは主張する。


5.博物学、富の分析、一般文法

 タクシノミアの代表として、フーコーは博物学富の分析一般文法を挙げている。

 まず博物学だが、この当時はあらゆる生物を階級づけることを主軸としていた。

「十八世紀末まで、生命というものは実在しない。ただ生物があるのみだ。生物は、世界のあらゆる物の系列のなかで、ひとつの分類階級、というよりむしろいくつかの分類階級を形成している。」

 富の分析においても、それまでは金銀という外徴を基軸として物の価値は考えられていたが、古典主義時代には、流通においてどのように価値が決まるかが考えられるようになる。

 つまり、あらゆる富が貨幣となることが可能になったことで、富を流通において分類して考える発想が生まれたのだ。

 一般文法も同様だ。これは、各「名」が一般的に何を指しているのかを網羅的に分類する。

「古典主義時代の思考の本質的問題は、《名》と《秩序》との関係のうちに宿っていた。すなわち、同時に《分類法》でもあるような《名称体系》を発見すること、あるいは、存在の連続性にたいして透明であるような記号体系を設定することが問題であった。」

 一切を分類的体系の中に押し込めること。これが古典主義時代のエピステーメーだった。フーコーは言う。

「ある文化のある時点においては、つねにただひとつの《エピステーメー》があるにすぎず、それがあらゆる知の成立条件を規定する。」


5.近代のエピステーメー

 古典主義時代のエピステーメーの象徴が『ドン・キホーテ』に見られたように、古典主義時代から近代への転換の象徴は、サドの文学に見ることができる。続いてフーコーはそう主張する。

「サドは古典主義時代の言説と思考の果てに到達した。彼はまさにそれらの限界に君臨している。彼以後、暴力、生と死、欲望、そして性が、表象のしたに巨大な影の連続面をひろげはじめ、われわれは今日、この影の連続面を、われわれの言説、われわれの自由、われわれの思考のなかにとり入れようとして、できるかぎりの努力をはらっているのだ。」

 分類ではなく、この分類の根底に流れる力を読み取ろうとする、いわばダイナミックな知のあり方が登場するのだ。

 このエピステーメーのもとに、かつての博物学は生物学へ、富の分析は経済学へ、そして一般文法は文献学へと転換する。

 アダム・スミス以来、経済学は経済の絶対的尺度を「労働」に見出してきた。

 生物学は、網羅的な分類ではなく、機能に基づく「組織」の概念を見出した。

 文献学は、諸言語の内部に共通してあるメカニズム(語の屈折)を見出した。

「つまり、知は、もはや表といった様態でではなく、系列、連鎖、生成といった様態で成立させられるのであり、約束された夕暮とともに結末の闇が訪れてくるであろうとき、〈歴史〉の緩慢な侵蝕作用ないし〈歴史〉の暴力は、その岩のような不動性のうちに、人間にかかわる人間学的真実をほとばしらせるのにほかならない。」

 この近代的エピステーメーにおいて、人間が登場してくることになる。フーコーはそう主張する。「歴史性は、人間の本質に正確に重ねあわされることになるからだ。」


6.人間の誕生と終焉

「十八世紀末以前に、《人間》というものは実在しなかったのである。《人間》こそ、知という造物主がわずか二百年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、まったく最近の被造物にすぎない。」

 近代学問の特徴は、認識対象としてと同時に、認識主体として人間が認識されるようになったことだ。

 そこには常に、「人間とは何か」という問いがつきまとっている。

すでにこのことは、カントが『論理学』のなかで、その伝統的三部作に究極的問いをつけくわえたとき、定式化したものだった。すなわち、それこそ、《人間とは何か?》という問いかけなのだが、三つの批判的設問(わたしは何を知ることができるか?わたしは何をなすべきか?わたしには何を希望することが許されるか?)は、そこで第四のそれに関係づけられ、いわば『それに依拠して』提出されたのである。」

 しかしこれは「人間学的な眠り」であるとフーコーは言う。

 われわれはこのような眠りを破壊しなければならない。

 今なお「人間」などと言う者は、笑い飛ばしてしまうべきである。フーコーは言う。

「なお人間、その統治、もしくはその解放について語ろうとするすべての人々、なお人間とはその本質において何かという設問を提出するすべての人々、人間から出発して真実に近づこうと望むすべての人々〔中略〕、こうしたぎこちなく歪んだ反省のあらゆる形態にたいしては、哲学的笑い――一部が沈黙の笑いであるような哲学的笑い――を向けることしかできないであろう。」

 冒頭にも書いたことだが、フーコーのこの主張には論理の飛躍があるように思われる。

 フーコー自身は、人間をテーマにし、そしてその人間を操ろうとする、「権力」と結びついた人文科学を批判したかったのだろう(フーコー『監獄の誕生』のページ参照)。

 その主張はよく分かる。しかしそのことと「人間の終焉」を要請することとは、また別の問題であるはずだ。

 しかしともあれ、フーコーは言う。

 精神分析文化人類学が、「人間の終焉」を予告していると。

 どちらも人間を規定しているものを探り出す学問であるからだ。

 こうして、本書は次のように締めくくられる。

「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
 もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば――そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。」


(苫野一徳)



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