フッサール『デカルト的省察』





はじめに

Edmund Husserl 1910s.jpg パリでの講演をもとにした、フッサール晩年の著作である本書では、『イデーンⅡ』でも展開された、間主観性他我についてが論じられている。

 後期フッサールは、『イデーン』などの中期から大きく変化した、とたまにいわれる。形而上学へ近づいたとか、独我論を抜け出すために間主観性という考え方を提示したとか、そんな風にいわれているようだが、実はそんなことはまったくない。

 彼のモチーフは、終始一貫、認識論を徹底させて認識論の難問を解消することにあった。エポケーと現象学的還元という重大な方法によってそれが可能であることを示したフッサールは、ただひたすら、その精度を高めようと、あれこれ偏執的なまでに細かく細かく論じ続けていたにすぎない。

 ハイデガーとは違い、形而上学に近づいたことなど一度もないし、方法的独我論を捨てて間主観性へと逃避したというようなことも決してない。

 本書を精読すれば、そのことがわかるはずだ。

 そして相変わらず、この真摯に真剣に哲学する男の姿は、度外れてかっこいい。


1.新デカルト主義

「たとえ超越論的現象学が、まさにデカルト的な動機を徹底して展開するために、デカルト哲学のよく知られている学説全体をほとんど拒否せざるをえないことになろうとも、この超越論的現象学を、新デカルト主義と呼ぶことができる。」

 フッサールがデカルトの方法を哲学上の偉大な出発点として評価していたことは、『イデーン』でもみた(フッサール『イデーンⅠ』のページ参照)。

 それは、デカルトの見出した決して疑い得ないコギト(我)という考え方が、確かに誰もがそうだと納得せざるを得ないほど、原理的なものだったからだ。

 デカルトの過ちは、しかしこの「コギト」を、絶対的な「実在」「実体」としてとらえてしまったところにある。『イデーン』でも、フッサールはそのように言っていた。

 この過ちを徹底的に訂正し、もう一度デカルトのモチーフをさらに原理的なものとして鍛え上げる。それが本書におけるフッサールの目的だ。



2.第1省察 超越論的我への道

 誰もが疑い得ない原理、これをフッサールは必当然的(アポディクティッシュな)明証という。

 これは絶対的「真理」という意味ではない。これまでカントのページでも『イデーン』においてもみたように、われわれにはそれは決して把握しえないのだ(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 したがって、絶対的「真理」ではなく、誰もがそうだと言わざるを得ない、疑い得ない原理を見出すこと。そうした明証は、

「少なくとも認識可能で疑いの余地がない内容を、すなわち、疑いの余地がないがゆえに断固として絶対的に確実な存在内容を、持っているはずである。」

 ちなみに、フッサールは「絶対的」とか「純粋」とかいう言葉をよく使う。それが、結局現象学は形而上学だという批判を浴びる原因のひとつになっているのだが、彼の言わんとしていることをしっかりと読み取れば、まったく的外れな批判であることが理解されるはずだ。


3.第2省察 超越論的な経験の場を、その普遍的構造にしたがって開示する

「およそいかなる意識体験も、それ自身で何ものかについての意識である。」

 これを志向性という。

 『イデーン』のポイントを思い出してみよう。

 われわれは、世界が絶対的に実在するかどうか、どこまでも疑いうるのだった。だからこそ、世界それ自体の実在は、一度括弧に入れる(エポケー)必要がある。

 そうしてみると、世界のすべては「私」にとって現われ出た「確信」「現象」であることがわかる。

 この「確信」の成立する場が、超越論的主観性と呼ばれ、一切をこの超越論的主観性に還元することを、現象学的還元という。

 さて、以上のように、一切はこの超越論的主観性における確信構造であることがわかったが、ではこの確信は、本質的にいかなる構造をもっているだろうか。

 フッサールはそれに、志向的に、という答えを与えるのだ。

 超越論的主観性の意識は必ずある対象(コギタートゥム)を伴っているが、この対象は、必ず意識の志向性に相関的に現象している。

 たとえば目の前にグラスがある。

 このグラスそれ自体の実在性はエポケーされているから、現象学においては、この存在はわれわれの「確信」として捉え直される。

 ではこの「確信」はどのような構造をもっているか。

 それはハイデガー的にいえば、われわれがどのような「視」を向けるかによって変わってくる(ハイデガー『存在と時間』のページ参照)。

 上から見れば、丸く見える。横から見れば、長方形に見える。触ってみれば、重さも感じる。

 このように、グラスはそれ自体として存在しているのではなく、常にわれわれの志向性に相関的に認識されているわけだ。



4.第3省察 構成に関わる問題圏。真理と現実

 第3省察は、前の続きのようなものだ。

 絶対的真理という考えは背理だ。われわれの現実は、超越論的主観性によって志向的に構成されているのだ。

 だからこれがどのようにして構成されているかを分析しよう。それが超越論的構成の分析という課題である。

「それは、非常にはっきりした課題であり、精確な意味での、存在する対象の超越論的構成という課題である。」


5.第4省察 超越論的な我自身の構成という問題の展開

 そこで、まずその構成された構造を明らかにしなければならないものは、「自我」である。

 この場において、一切が構成されているからだ。

 ところで、このブログでも、デリダ『声と現象』におけるフッサール批判について紹介・解説しているが、その批判のポイントは、絶対的な「今」「ここ」などそもそもありえないということだった(デリダ『声と現象』のページ参照)。

 しかしこれは、実はまったく的外れな批判である。



 フッサールは、「実体」としての超越論的主観性を論じたのではない。われわれがいつでもある確信構造をもっている以上、その確信を成立させる場を「超越論的主観性」と名づけただけであって、これが世界内に実在するなどとはひと言も言っていない。



 確かに、「今」「ここ」の私が、次の瞬間もまったく同じ私であるかどうかはわからない。

 しかしそれでも、そう確信しているのは、「今」「ここ」の私であると言うほかない。

 ではこの「私」は、どのようにして「私」と確信されているのだろうか。それを現象学的に分析してみよう。

 フッサールが言っているのは、そういうことなのだ。

 そうして取り出した構造が、習慣の積み重ねや、豊かな具体性、といった形で提示されている。

 この豊かな具体性を伴った自我を、フッサールはモナドとしての具体的な我と呼ぶ。

 たとえばこういうことだ。

 お腹が痛い。ずっと痛い。いつまでも痛み続ける。

 この連続性という具体性が、私の連続性、つまり私の同一性を確信させる。

 このような経験の具体性が、「私」といったものの存在を確信させるわけだ。

 こうしてフッサールは、超越論的主観性の構造を分析することが現象学の重要な課題であるというのだが、私の考えでは、それはハイデガー現存在分析として見事に結実している。

6.第5省察 超越論的な存在の場をモナドの関主観性としてあらわにする

 第5省察で、フッサールは間主観性他我の問題を取り上げる。

 エポケーと還元を施された今、「他者」の実在は「括弧に入れられ」、今やそれは超越論的主観性における「確信」となっている。

 ではこの「他者」は、どのようなものとして確信されているのだろうか。

 フッサールは手始めに、「他者」とは関係のない、「私」に固有なものを見出そうと試みる。

 そうして見出されたものが、己の身体だ。

 フッサールによれば、他者の存在は、この己の「身体」との類比からまず確信される。そして「私」は、「他我」が自分と同じように現存在していることを確信する。

 そのような「他我」は、大変に重大な意味をもった存在だ。

 なぜなら、この「他我」が、われわれのあらゆる存在確信に大きな影響を及ぼすからだ。

 フッサールは次のように言う。

「私たちはいつも二種類の統覚の根本的な区別に戻って来ることになる。一つには、その発生からして純粋に原初的領分に属するような統覚と、もう一つには、他我という意味とともに現れ、より高次の発生のおかげで、この意味のうえに新しい意味を積み重ねるような統覚、という二つの統覚の区別である。」

 これは「知覚」においても言えることだが、よりわかりやすいのは「意味」の領域だろう。

 われわれは、あらゆる物事にいつも「意味」を捉えている。

 しかしこの「意味」構成は、他者の捉えた「意味」が大きく影響してくる。

 たとえば、私個人の原初的感覚として、「この人美しいかも」と思ったとする。周りの意見を聞いてみると、皆、「この人はとても美しい」と言う。すると、ますます自分はその人を美しいと思うようになる、といった具合だ。

 他者だけが、超越論的主観性に絶大で特別な影響を与える存在者なのだ。

 だからこそ、フッサールは間主観性の重要性を説くわけだ。

「それは、言うまでもなく、純粋に私のうち、つまり省察する我うちで、純粋に私の志向性という原泉から、私にとって存在するものとして構成される。にもかかわらず、それは(「他者」という変様をもった)それぞれのモナドのうちで、異なる主観的な現出の仕方をもちながらも、同じものとして構成される。しかも、同じ客観的世界を必然的に自らのうちに担ったものとして構成されるのである。」

 だからこそ、超越論的主観性におけるあらゆる確信構造を記述する上で、間主観性の分析は特別な意味をもつわけだ。

以上のようにして、フッサールは、現象学の重要な課題として、
超越論的主観性の志向的分析と間主観性の志向的分析を挙げた。

 前述したように、私の考えでは、この課題はハイデガーの『存在と時間』によって、見事に果たされることになる。


(苫野一徳)


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