ロック『人間知性論』

はじめに

 近代人権思想に多大な影響を与えたロックだが、私の考えでは、彼の哲学は、デカルトホッブズルソーといった思想家たちに比べて、やや強靭さに劣る。

 彼の天賦人権論は、われわれには証明しようのないものだ。人権は神によってもともと与えられている、という「理念」それ自体は、確かにアメリカ独立宣言フランス人権宣言に多大な影響を与えた。しかしこの「理念」は、結局信じるか信じないかの問題であって、誰もが納得しうる考え、というものにはなっていないロック『統治論』のページ参照)。

 ともあれ、本書はロックの認識論の集大成、イギリス経験論の金字塔だ。

 生得観念を否定し、精神白紙説」(タブラ・ラサ)を唱えたロック。

 ロックの時代の世界観は、この世はすべてによって定められており、神に権力を授けられたによって治められるべきである、というものだった。

 つまり人間の自由は否定されていたのだ。

 ロックの功績は、この運命論に対して、人間の精神は誰によっても定められていない白紙の状態なのだと、人間の自由をきわめて早い時期に主張した点にある。




1.本書の目的


 「私たちに了解できるものと了解できないものとを分ける境界線を見出せば、人は、明るく了解できるものに思惟を費やして、その論議にいっそう多くの利益と満足を得るだろう。」
 
 この言葉には、近代の哲学者たちが格闘した問題がはっきりと表現されている。
 
 プロテスタントとカトリックの争いなど、多くの信念・信仰対立を経験したこの時代、われわれに理解できないものをめぐって争い続けるのは無益なことだ、という考えが、徐々に育まれ始めていた。
 
 ロックやヒュームといったイギリス経験論の哲学者たちは、そこでこの問題に答えを与えるべく、「われわれは一体どこまでを知ることができ、どこからは知ることができないのか」を考えようとした(ヒューム『人性論』のページ参照)。
 
 その答えが、以下に示されていくわけだ。
 
 
2.生得観念はない


「最初の種類のあるものが、一般にたやすく受け入れられるところから、これまで生得と誤られてきたのである。そして原理があるという教理がひとたび確立されてしまうと、その信奉者たちは、否応なしにある教説を生得原理として受け入れるようになるのである。」


 ロックは言う。の観念すら、経験から得られたものだ。


 道徳観念だって、経験から得られたもので生得的なものではない。生得的なものだとしたら、なぜ人々は平然と道徳規則にそむくことができるのか。


 重要なドグマ批判だ。それぞれのもつ信念、信仰を、一度相対化してみようというメッセージが込められている。



3.心は白紙


「心は白紙で、観念は少しもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。私はそれを、経験から、と答える。それは感覚と内省からなる。」


 われわれの感覚が、外界と触れる。そのときたとえば、熱い、とか、冷たい、とか思う。


 この「思う」内省によって、われわれは「熱い」とか「冷たい」とかいう観念を得る。


 そうロックはいうわけだ。


 「熱い」も「冷たい」も、もともと人間にそなわっていた観念ではない。


 さて、しかし私の考えでは、生得観念はあるかないか、というこの問い、まさにこの問いこそ、知ることのできない問いである。


 「熱い」とか「冷たい」とかいう観念なしに、どうやって人はそもそも感覚を通して「熱い」とか「冷たい」とか思うことができるのか。


 しかしだからと言って、逆に、この観念がもともと備わっているかどうかもわからない。何となく熱いかも……という「感じ」が、経験を通して「熱い」という観念としてまとめ上げられたのかも知れない。

 要するに、「感覚」とか「観念」とか「内省」とかいうものを、厳密に分割して整合的に説明しようとするところに無理があるのだ。


 このやり方は、のちにカントによって徹底され、問題はさらに一歩進展することになる。


 カントは、感性悟性理性、という分割によって人間の認識を説明する(カント『純粋理性批判』のページ参照)。


 しかし私の考えでは、それでも問題は徹底した解明を得ることはできなかった。


 われわれに言えるのは、生得観念はあるかないかとか、純粋悟性のカテゴリー(カント)が何だとか、そういうことではなく、ただ、確かにわれわれの観念はかなりの部分において経験によって構築されているようだ、ということだけであるはずだ。


 しかしそれはともあれ、先に進もう。


4.一次性質と二次性質


「一次性質は、物体からまったく分離できないようなもの、二次性質は、色、音、味などである。」


 たとえば石の硬さや大きさは一次性質で、これを叩いたときの音は二次性質ということになる。

 前者は石固有の性質。後者は認識主体である人間との関係によって変化する。


 これもまた、かなりアヤシゲな分類だ。


 硬さや大きさは、ほんとうに石固有の、絶対不変の性質だろうか。
 
 実はこうしたあらゆる「性質」も、すべてはわれわれ認識主観に「相関的」に現象しているということ、これが、後の現象学が明らかにしたことだ(フッサール『イデーン』のページなど参照)。

 ともあれ、ロックはほかにも、言葉を分析したり、真理について考えたり、また、神の生得観念を否定したはずなのにあとになって神の存在証明なんかもしてしまうのだが、カントやフッサールを知った私たちには、彼の認識論はもはや過去の遺物となった感がある。

 しかしそれでもなお、「われわれには何を知りうるか」という、近代認識論の問いに先鞭をつけたロックの栄誉は、やはり不滅なのである。

(苫野一徳)


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