デリダ『声と現象』

はじめに

 現代思想随一のダンディ、デリダ。

 この男はカッコよすぎる。

 ウィトゲンシュタインしかり、艶やかなダンディ思想家には、いつも一種独特の魔力のようなものがある。

 彼以後無数に現れたポストモダン思想家たちのなかでも、やはりデリダのカリスマ性は図抜けて光っている。

 しかしその思想は、ひとことでいえば相対主義。あるいは懐疑主義

 これは実はいつの時代でも、特に何らかの大きな価値が崩れ去ったあと、必ずといっていいほど出現してきた思想のパターンだ。

 ペロポネソス戦争を境に、それまでの理想的政治体制であったアテネの民主制が崩壊しはじめた頃には、ソフィストたちが登場した。

 カトリックプロテスタントの長きにわたる戦いの頃には、デカルトをして哲学の第一原理に向かわせるきっかけを与えた、懐疑主義者たちが登場した。(デカルトは、中途半端な懐疑主義に抗して、自らが徹底的な懐疑をみせ、そうすることでかえって誰もが疑いえない哲学原理を取り出そうとした。)

 フランス革命の夢とその挫折のあとには、ヘーゲルイロニーの悪として批判した懐疑主義者たちが、雨後の筍のごとく出現した。

 だからはっきり言って、ポストモダンといわれる相対主義・懐疑主義の出現は、2つの世界大戦とその後のマルクス主義の挫折によって、永遠の進歩、という近代的理想が崩壊したあとに出てきた、いわば想定済みの思想であって決して真新しいものではない。

 事実、私はこの手の思想は、もはやその役目を終え、過去のものになりつつあると思う。

 相対主義も懐疑主義も、結局何も積極的なものを生まないからだ。

 そして実際、歴史に残ったのはこれら懐疑主義・相対主義を克服した、積極的価値、あるいは積極的価値の論じ方を提示した哲学だった。

 しかし、世界に意味を見出すことのできない若者や、世界から拒絶されていると思いがちな人にとって、ポストモダン思想は大きな魅力をもっている。

 ここに、自分たちのある感情が、見事に表現されていると思うことができるからだ。

 そしてまた、こうした思想家たちは文学的修辞にも長け、何かすごいものをつかませてくれるに違いない、という直観を抱かせる。

 しかし私は、そこに文学的価値はあっても、思想としての価値はほとんどない、と思う。より正確にいうと、伝え合う、了解し合う、創造し合う、という思想の試みとしての価値は、あまりない。

 上述したような世界史的・哲学史的背景を身につけると、そのことがよくみえてくる。

 ともあれ、本書はデリダのデビュー作にして出世作。ポストモダン的レトリックの原型を、存分に堪能することができる。


1.本書の目的

「意識としての現前性の特権が声の優越性によってしか確立されることができないということ、これこそが、現象学の中でいまだかつて一度も舞台の前面に出たことのない明白な事実(明証性)なのである。」

 本書の目的は、形而上学を乗り越えかつ認識問題を解明したと称する、フッサール現象学(特にその『論理学研究』)が、実は形而上学そのものであったことを明らかにしこれを批判することにある。

 ここでいう「」とは、今、ここの、絶対的な「」のモデルだ。

 現象学は、すべてを、今、ここの、絶対的な「私」に、つまりこの「私」が発する「声」に還元する。

 しかしそれは不可能であり、ここにこそ形而上学的前提がある。

 いったいこの「私」が絶対的な明証だなんて、どうしていうことができるのか。

 デリダはまず、このように問うのだ。



2.外も内も区別できない

「実際、それは『諸原理の原理』にみることができる。現在(現前)するものしか存在しないのである。」

 デリダは、フッサールの「諸原理の原理」という考え方に、まさに形而上学があるという。

 私の考えでは、デリダはフッサールを完全に誤解している。

 『イデーン』のページでもみたが、フッサールはデカルト的懐疑を踏襲し、決して疑いえない、コギタチオ−コギタートゥムという構造をもった意識作用=超越論的主観性を見出した(フッサール『イデーンⅠ』のページ参照)。

 私が見ているこのグラスがほんとうにあるかどうかはわからないが、しかし私にこのグラスが見えているということは疑いえない。

 ではなぜそのような確信が成立するのか。その最も本質的な条件が、直観だ。

 つまり、今、ここにおいて、確かに私は目の前のグラスが見えてしまっている(直観できている)。

 この、今、この瞬間の直観こそが、確信成立の最大条件であって、フッサールはこれを「諸原理の原理」と呼んだ。

 このようにみれば、デリダの批判が的外れであることははっきりしている。

 「現在(現前)するもの」しか存在しない、などとは、フッサールはひとことも言っていない。

 あらゆる実在物は懐疑可能だが、しかしこれが確かにある、と確信せざるをえないその条件が、今、この瞬間の「私」の直観なのだ、といっているのだ。



3.絶対的な「私」などない

 したがって、私の考えでは、以下のデリダのフッサール批判もほとんどが的外れなものだ。

「知覚された現前性が立ち現れることができるのは、ある種の非-現前性、非-知覚と、連続的に折り合いをつけているかぎりでのことである。つまり、瞬間の瞬きの中に非-現前性と非-明証性を迎え入れることになる。」
 
 現前性をフッサールは明証の根拠とするが、今、この瞬間などあるわけない、というのがデリダの批判だ。

 今この瞬間の私と、次の瞬間の私とが同じであるという保証も、実はない。デリダはそう主張する。

「こうしてそれは、単一性における自己同一性のあらゆる可能性を、根底から打ち砕いてしまう。」


「過去把持と再-現前化に共通の痕跡は、差延の運動そのものによって、今の顕在性を構成することにもなる可能性である。この痕跡、この差延は、つねに現前性よりも古く、現前性の開始を引き起こすものである。」

 こうして、ここに「差延」と「痕跡」という概念が登場する。

 結局絶対的な今、ここの「私」などなく、この「私」に至るまでには、無限の「差延」が繰り返され、その「痕跡」が残っているだけなのだ。そうデリダは言うわけだ。

 しかし何度もいうように、フッサールにおける超越論的主観性というのは、今、ここ、の、絶対的「実在」としての「私」ではない。

 あくまでも、われわれの確信の最終条件は、今、この瞬間の「私」の直観にしかない、といっているだけなのだ。

 確かに「私」だって疑いうる。一瞬前の私と今この瞬間の私が、同一人物であるかどうかは懐疑可能だ。(実はこのような論理は、大昔からずっと続いてきたものでもある。たとえば大乗仏典『認識と論理』のページなども参照されたい。)

 しかしそれでもなお、そのように懐疑しているという作用それ自体は、今、この瞬間の「私」の直観によっている。

 この直観それ自体も「差延」と「痕跡」でしかない、というデリダの論法は、実は現象学が懐疑可能という意味で使う「超越」である、とひと言いえば済む問題で、直観それ自体も何らか構成されたものであるかもしれないが、そう考える作用それ自体は、今、ここの私の直観でしかありえないのだから、それ以前のことを問うのはやめよう、答えが出ない問題なんだから……。フッサールはそういったのだ。

 だから、実はデリダのほうこそ、フッサールが禁じ手にした「形而上学」的問いに答えようとしてしまったのだ、ということもできる。彼は次のようにいっている。

「差延の運動が、超越論的主観を生み出すのだ。」

 超越論的主観性がどのように構成されたかなど、超越論的主観性それ自体が問う問題である以上絶対的には解答不可能である。ここに「差延」という概念をおくことは、したがって実のところ背理なのだ。


(苫野一徳)



Copyright(C) 2009 TOMANO Ittoku  All rights reserved.