ウォルツァー『正義の領分』

Michael Walzerはじめに

 コミュニタリアニズム(共同体主義)の論客として知られる、ユニークな思想家。ロールズ以来、抽象的な「正義」論が政治哲学界をにぎわせてきたが、ウォルツァーは常に具体的な諸問題に取り組み続けている
 
 9.11後の、ブッシュ政権の対テロ戦争を支持したことでも有名だ。

 何かと「問題」「話題」の思想家だが、抽象論が目立つ現代政治哲学において、豊かな具体性から原理を考えていく、そのスタイルはやはり大きな魅力をもっている。

 もっとも、その具体的思考が徹底的に鍛え抜かれた原理性を備えているかと言えば、本書には残念ながらかなり問題なところもあると私は考えている。


1.複合的平等

 本書におけるウォルツァーの中心理論は、複合的平等である。何をもって「平等」とするかは、それまでかなり一元的に捉えられていた。しかしウォルツァーは、平等の基準は領域ごとに異なるものだと主張した。

「形式的な言い方をすれば、複合的平等とは、一つの領分に立つ市民、あるいは一つの社会的財にかかわっている市民は、他の領分に立ち、他の財にかかわることで、地位が低下させられることはないということを意味している。市民Xは政治的職務では市民Yより上位の者として選ばれる。その場合、この二人は政治の領分においては平等ではない。しかし、Xの職務が他の領分でのYにたいして有利な立場――たとえば、よりすぐれた医療看護、子供のよりよい学校選択、企業分野での機会など――をなんらもたらさないのなら、彼らは不平等ではない、とほぼ言っていいであろう。」

 平等論に新たなパースペクティブを開いた言明といっていいだろう。


2.成員資格(メンバーシップ)

「私たちがお互いの間で配分する第一の財は、或る共同体の中での成員資格である。」

 正義にかなった社会、という発想において、われわれはたいてい、まず富の配分について考える。

 しかし富の配分に先立って、われわれは、いったい誰を仲間とみなすのかを決定する必要がある。

 ウォルツァーはこの問題に対して、次のように単純明快に回答する。

「すでにである私たちがその選択を行うのである。〔中略〕この場合、私たちが配分の権限をもっている(他の誰が権限をもちえよう)。」

 そして言う。

「だから、配分的正義の理論は成員資格の権利の説明から始まるのである。しかし同時に、その理論は閉鎖の(限定的な)権利も支持しなければならない。それなしでは、共同体というものは存在しえないし、現存する共同体の政治的包括性もありえない。」

 共同体は、常にある程度、その共同体に参加したい外部者に対して開かれている必要がある。しかしだからといって、無制限に開かれているというわけにもいかない。成員資格の理論には、外部者を拒否する権利も何らかの形で組み込んでおく必要がある。そうウォルツァーは言う。


3.安全と福祉

 政治的共同体の存立理由は、何をおいても安全福祉にある。続いてウォルツァーは、そのように言う。

「私たちは一人では処理できない困難や危険を処理するために、集まり、共同体を形成する」のだ。

 しかしそれがどの程度のものか、となると、途端に話はややこしくなる。

「どの必要が認められるべきかについての先験的な規定はありえないことを私は再び強調したい。そして用意の適切なレベルを決める先験的な仕方もない。〔中略〕だから変化は常に政治的議論、組織、闘争の問題である。」

 それゆえウォルツァーのアプローチは、常に現実の具体的テーマから説き起こすというものになる。彼は次のように言う。

「今や細部に取り組むことだけが残っている。しかし、日常生活においては細部がすべてである。」

 そこでウォルツァーはこの後、貨幣経済や教育、政治権力などについて具体的に論じていく。ここでは教育について紹介しておこう。


4.教育

「私たちは教育の平等を福祉的用意の一つの形として考えることができる。〔中略〕彼らの教育は両親の社会的地位や経済能力に頼ることは許されない。」

 子どもたちに教育の機会をどのように配分するか。ウォルツァーはそれを、本書で次のような問いとして提起する。

「だれがだれといっしょに学校へ行くのか。」

 まず彼は、無作為な選び方を、一見平等にみえて実は専制的なシステムであるとして次のように批判する。

「これは専制の社会でのみ達成されうると私は思う。いずれにせよ、教育は自分自身のアイデンティティ、願望、生活をもった、特定の個々人の訓練として一層適切に叙述されるものである。」

 それぞれの子どもたちには、それぞれ多様なアイデンティティや願望がある。これを無視して「みんな一緒」にすることは専制的だ。ウォルツァーはそう言うのだ。

 したがってウォルツァーは、多様なそれぞれの共同体に応じた教育を正当なものとする。

「学校は民主社会の中で大人の人々の結合を予想した結合のパターンを目ざすべきである。これは学校の中心的目的に最もよく適合した原理であるが、非常に一般的な原理でもある。それは無作為性を排除する。というのは、私たち大人は(当然どの共同体でも)関心、職業、血縁などと無関係に無作為に結合しないからである。」

 いかにもコミュニタリアンの教育論、という感じがする。

 子どもたちは、子どもたち自身が所属する共同体に適した教育を受けるべきだ、というのが、ウォルツァーの基本的発想だ。

「既知の世界の中での特定の環境で、子供たちはいつの日か市民としていっしょになるときと同じように、生徒としていっしょになっている。この状態のとき、学校は媒介の役割を最もたやすく実現する。」

 しかし私の考えでは、これはあくまで一定の留保内においてのみ正当化される考えだ。

 子どもたち自身が、自らの共同体やその価値観から脱け出たいと思ったとき、その可能性を、われわれはしっかりと担保しておく必要がある。ナイーブな共同体主義は、子どもたちの自由の実質化を妨げてしまう場合がある。

 ここで詳しく論じる余裕はないが、わたしの考えでは、教育の本質は「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の〈教養=力能〉を通した実質化」にある。そして社会政策としての公教育の「正当性」の原理は、「一般福祉」にある。

 それぞれの共同体の多様な教育を一定認めることは重要だ。しかしそれは、あくまでも「一般福祉」の原理内においてのみ正当化されるのだ(詳しくは拙著『どのような教育が「よい」教育か』〔講談社〕をご参照ください)。

(苫野一徳)



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