ヒューム『人性論』


はじめに

 ロックバークリーといった、ヒューム以前のイギリス経験論の哲学者たちには、今なお「神」の存在が色濃くあった(ロック『人間知性論』バークリー『人知原理論』のページ参照)。

 しかしヒュームはついに、「神」もまた人間の習慣信念によって作られたものであることを論じるに至る。

 絶対的真理などはない。一切はわれわれの習慣によって形成されたものである。したがって、絶対的真理をめぐって争い合うことは、無益なことである。

 そう論じたヒュームは、そのことでカントに先駆けいち早く形而上学(絶対的真理を問う学)の無効性を主張した(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 カントに絶大な影響を与え、また20世紀において現象学を創始したフッサールによって、現象学の祖の1人とも称えられることになったヒュームの哲学は、イギリス経験論の最骨頂であるということができるだろう(フッサール『イデーン』のページ参照)。


1.本書の目的

「われわれが人間の知性の及びうる範囲と力とを知り、推論に際して用いる観念の本性を明らかにできれば、これらの学問は大いに進歩するであろう。」

 ロック『人間知性論』と、本書の目的はほぼ同じだ。

 プロテスタントとカトリックの争いをはじめとする「絶対」をめぐる対立に、多くの人が倦み果てていたこの時代。イギリス経験論の哲学者たちは、人間が何を知り得て何を知り得ないかを明らかにすることで、無益な争いに終止符を打ちたいと考えた。

 そこでヒュームは、まず、われわれに疑いがたく訪れる「知覚」について考察を開始する。


2.知覚について

「すべての知覚は、『印象』と『観念』の二種類に分かれる。」

 ヒュームによると、印象「きわめて激しく入り込む知覚のことであり、心に初めて現れるときの感覚、情念、感動のすべてをこの名称で包括することができる。」

 一方の観念は、「思考や推論の際の勢いのないこれらの心像のことである。」



 私なりにいい換えれば、物を見たり感じたりするときに、「熱い」とか「うれしい」とか思うことが「印象」。



 そして「観念」は、この印象と結びついて、ああこれ「熱い」な、とか、「うれしい」な、とか判断する時の、いわば自覚化された印象である。 



 そしてヒュームは次のように言う。



「印象には『感覚』の印象と『反省』の印象がある。前者は知られない原因から直接心に起こる。後者は観念に起因する。」


 なぜかわからないけど、われわれは「熱い」とか「うれしい」とか感じる。その根拠は、わからない。

 でも、確かにわれわれはこれを「熱い」とか「うれしい」とか感じた。

 それは間違いない。

 このように「反省」できるのは、われわれに「観念」があるからだ。

 そうヒュームは言うわけだ。

 後にカントがこれを発展させて、「感性」はこのような受動的印象をつかさどり、それがある「観念」群、つまり純粋悟性のカテゴリーに照らし合わされることで、われわれの認識が構成されることになる、と論じることになる。


3.習慣

「知識はすべて蓋然性へ退化する。原因と結果に関するすべての推論は習慣にのみ起因する。」
 
 ヒュームによれば、結局この世に絶対に確かなものはなく、われわれはあらゆる信念を「習慣」によって形成しているにすぎない。

「要するに、必然性は心のなかに存在するなにものかであって、対象のなかにあるのではない。」

 客観それ自体というものが存在しているのではなく、すべてのものはわれわれのにおいて存在妥当している。

 ここには、20世紀のフッサール現象学に先駆ける極めて重要な洞察がある。


4.物自体は認識不可能

「いかなる原因がわれわれに物体の存在を信じさせるようにするのか、と問うのはかまわないが、しかし、物体があるのかないのか、と問うのは無益なことである。」

 後のカント先験哲学の大前提となる物自体の認識不可能性について、ヒュームは本書ではっきりと述べている。

 デカルトのページでもみたように、われわれは、今この目の前の現実が夢かも知れないという可能性を、原理的に否定することはできない(デカルト『方法序説』のページ参照)。

 そうである以上、われわれはそもそも、目の前の物体が絶対確実に実在しているのかどうかすら、原理的には決して分からない。
 
 しかしわれわれは、なぜその物体の存在を信じているのか、と問うことはできる。

 これこそまさに、フッサール現象学の核心だ。

 カントもフッサールも、ヒュームに多くを負っている。私は現象学を現代哲学最高の認識論と考えているが、その偉大な先駆者としてのヒュームの功績は、これからも薄れ去ることはないだろう。


5.自己の同一性すらわからない

「自己の同一性について、われわれは自己のいかなる観念も持っていない。」

 私たちは、自分が変わらずずっと存在し続けていると普通に考えている。

 しかしそれすら、考えてみれば確かなことではない。

 眠っている時、私は私を知覚できない。

「その間、私は存在していないと言ってもいい」

 実際、もしかしたら「私」は、その間まったく別の生物にとってかわられているかも知れないのだ。

 それが知覚対象であれ、あるいは「私」の存在であれ、私たちはその実在を、疑おうと思えばいくらでも疑うことができる。

 しかしそれでもなお、われわれは、自分が自分であり続けていると「信じて」いるはずである。

 それは一体、なぜなのか。

 知覚対象が実在するとか「私」が実在するとかいうのではなく、なぜ、そしてどのように、われわれはその実在を「信じて」いるのかを問うこと。

 ヒュームはこのように、哲学の問いの立て方を一新した。

 問うべきは、絶対的な客観ではなく、客観という信念がどのように確信されているかというその問題なのだ。
 
 繰り返すが、フッサール現象学は、このヒュームのモチーフを全面的に継承したものである。


6.結論

「われわれは直接の原因を知るだけでは満足せず、究極原理にまで達しようとする。そして、この結合、きずな、あるいは勢力が実はただわれわれ自身のうちにあるにすぎないことを学び知るとき、どんなに失望せねばならぬことか。」

 後にカント理性の特性として述べたことが、やはりここにまた先取りされている。

 われわれは、ある原因を知れば、その原因は何か、そのまた原因は何か、と問い続けることをやめようとしない存在だ。

 そして結局、その答えは出ないのである。

 それゆえわれわれは、理性の力を完全に信じることはできない。

 しかしそれではあまりに何もかもが確かでなくなってしまうから、ヒュームとしては最後にこういうほかなかった。


「結局、自然の流れに身をゆだねて、感覚機能にも知性にも従順であってよい。」 

 さんざん感覚も知性も確かじゃないといっておきながら、結局はこれに従順であってよいとは、ヒュームも中々人を食った男だと思う。

 しかしこれは、ヒュームなりの誠実さでもあったのだろう。一切は不確かだが、だからといって何もかも信じることができなければ、私たちはまともに生きていくことさえできないだろう。

 ヒュームは、その最後の一線を手放すわけにはいかなかったのだ。

 このヒュームの問題については、続くカントが徹底的に考え抜くことになる。

 確かに絶対的真理などはないかも知れないが、ヒュームのように、一切は不確かであるなどというのも極端にすぎる。真理は分からなくとも、世界に確実性を見出してしまう、そのようなわれわれ人間自身の認識枠組みであれば見出すことができるのではないか。

 これが、カントがヒュームの哲学から得た着想だった。


(苫野一徳)

Copyright(C) 2009 TOMANO Ittoku  All rights reserved.