デューイ『経験と教育』

はじめに

John Dewey デューイ晩年の教育論である本書は、彼の集大成にふさわしい名著になっている。

 教育をすべて経験から考えたデューイが、そもそも経験とは何であるか、そして教育はどのような経験を志向すべきか、徹底的に考え抜いた著作だ。

 『民主主義と教育』のページなどでも書いたが、私の考えでは、彼の思索にはやや不徹底なところがある。

 誰もが納得しうるほんとうに力強い思考というのは、わずかでも出発点方向性をそれてしまえば、達成することのできないものだ。哲学とはそういうシビアな営みだ。

 デューイはその点、ほんのわずか方向性をそれてしまった。私はそう思う。

 しかし彼が直観的に理解していたことはとても画期的なことだったし、そして彼のモチーフを、私たちは現代的にさらに鍛え直すことができるはずだと私は思う。


1.自由を問う

「自由が意味するものとは何か。さらに自由の実現可能な条件とは何か。」

 この時代、いわゆる進歩主義教育新教育というものが登場し、子どもを中心にした教育方法が世界中をかけめぐっていた。

 それに対して、伝統を教え込め、知識を詰め込め、という伝統主義的教育にくみする人たちが、進歩主義教育は子どもたちの奔放な自由を無条件に容認するけしからん教育だ、といって、激しい批判を行っていた。

 進歩主義教育の旗手とみなされていたデューイは、素朴な児童中心主義である進歩主義教育も、また、素朴な保守派である伝統主義教育も、どちらも批判する。

 そこで本書が焦点を当てるのは、進歩主義教育がいう子どもの「自由」とはいったいどういうことか、ということだ。


2.経験の2原理

 そこでまず彼が考えるのは、やはり「経験」についてである。デューイは教育を考えるさいの出発点を、いつでも「経験」に立ち戻るよう促すのだ。

 『民主主義と教育』でみたように、教育とはたえざる経験の再構成にほかならないからだ。

 デューイはここで、経験の2原理を提示する。1つめは、「経験の連続性」の原理だ。

「経験の連続性の原理(the principle of continuity of experience)は、すべての経験は以前過ぎ去ったものから何らかのものを受け取り、そしてまたその後に引き続くものの質を、何らかの方法で変容させるものである、ということを意味する。」

 これはいわばあたりまえのことで、われわれはいつでも過去から学び、現在に対処し、未来へとつなげていくものだ、ということだ。

 次の原理は、「経験の相互作用」の原理だ。

「すべての真正な経験は、その経験がなされる客観的な条件をある程度変容させるという、積極的な側面をもっている。」
「経験を生じせしめる源は、個人の外にあるのである。経験は、これらの源泉によって絶えず養い育てられる。」
 
 経験とは、たえずある環境世界との相互作用によって進行するものである。

 これもまた、いわばあたりまえの原理だ。

 われわれは外部との相互作用によって自らを変容するし、そしてまた、外部の環境を変化させながら成長するのである。

 以上から、教育とは、これら連続性と相互作用の原理をもった経験を、望ましい方向へと成長できるよう、環境を整え導くことにあるのだ。デューイはそのようにいう。


3.経験(成長)の指針のあいまいさ

 さて、ところが『民主主義と教育』でもみたように、デューイは結局のところ、ではわれわれはどのような経験、どのような成長であればこれを「よい」といえるのか、という、その指針を明示することができなかった。

 教育の究極目的を相対化したデューイにしてみれば、それは当然の態度だったといえるだろう。

 結局デューイは、より以上の成長、ということしかできなかった。彼の言い方は、結局次のようなものにとどまってしまうのだ。

「ただ特殊な径路での発達が連続する成長に貢献しそれを導くとき、まさにそのときにのみ、その特殊な発達は、成長することとしての教育の基準を満たし、それに応えるということだけ言っておこう。」

 私の考えでは、この基準(指針)のあいまいさが、その後の教育(学)の混乱の一要因になっている。

 しかしまた同時に思うのは、デューイのこの言い方はとても誠実だった、ということだ。

 彼が言ったのは、経験の形式的原理である。

 つまり内容をもたないので、いつでもどんなときにでも妥当する原理であるわけだ。

 どのような経験であればこれを「よい」といえるかというのは、観点による。だから絶対的に「よい」経験など、結局言い当てることはできないわけだ。

 そういう意味では、ただより以上の成長、とだけいったデューイは、確かに誠実だった。

 しかしそれでは、実際の教育を構想するための指針が得られない。結局われわれは、どのような経験、成長、教育であれば、これをよいといえるのか。それを明示できなければ、教育(哲)学の存在意義はない。


4.自由について

 私はこの問いに、拙著『どのような教育が「よい」教育か』(講談社)等において、一応の答えを提示した。

 その際着目したのは、ヘーゲル「自由」論である。



 デューイも、かつてはヘーゲル主義者だった。そして私の考えでは、ヘーゲル「自由」論のエキスを汲み取り、デューイもついに、教育における「自由」について、本書で大上段に語ることになった。




 私なりに敷衍すれば、デューイは、教育は個々人の自由を実質化するという本質をもつ、と考えていたと思う。「自由の実質化」とは私の言葉で、彼はそのような言葉を提示することはなかったけれど、まさに彼の言っていたことは、そういうことだ。



「教育の理想的な目的は、自制力の創造にある。〔中略〕知性によって秩序づけられていない衝動や願望は、偶発的な環境の統制下にある。」

 自らの奔放な欲望や衝動のままにある人間は、不自由である。デューイはそう言う。

 自由とは、これら諸衝動を知性によってコントロールし、そうすることで計画的に欲望や目的を達成できることをいうのだ。

「そこで切実なものになってきた教育問題は、欲望に相応するような行動をとらず、その前に観察と判断がはいり込むまで、初期の欲望を延期するだけの能力を身につけさせるという問題である。」

 デューイはこのように言う。

 こうみてくれば、デューイの考える進歩主義教育における「自由」とは、何も子どもの好き放題を認めることではなく、むしろ諸衝動の支配下にある「不自由」な子どもたちを、知的に育むことで「自由」にしていく、そういう意味をもっていたのだといえるだろう。

(苫野一徳)

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