サルトル『存在と無』

 


はじめに

ファイル:Sartre.jpg 20世紀における実存主義ブームを惹き起こした、サルトルの大著。

 思想史に一時代を画したサルトルではあるが、しかし今日では、彼の思想はずいぶん色あせたものとなってしまったようにみえる。

 構造主義レヴィ=ストロースによるサルトル批判は有名だが、後にマルクス主義に接近することにもなるサルトルには、「進歩」への物語とでも言うべきものへの親和性が確かにあった。それぞれの文化にはそれぞれの価値基準がある、ということを主張したレヴィ=ストロースが、彼を激しく批判したのもある意味当然のことだった(レヴィ=ストロース『野生の思考』のページ参照)。


 私自身は、本書には、哲学的にはヘーゲルフッサールハイデガーの到達した以上のものはないと考えている。

 サルトルの独自な文体で、3人の哲学を晦渋に言い直しただけだ。

 むしろ、この3人の哲学者のせっかくの到達点を、かえって劣化させてしまったところすらあると考えている。

 しかしその一方で、いかんともしがたい魅力もまたサルトルにはある。

 独自の文学的レトリックは、難解だが、要点をつかむとなるほど何とうまい言い方かと圧倒してくる力に満ちている。

 哲学者というよりは、文学者として天才だった人。そう言うべきではないかと個人的には考えている。


1.即自と対自

 本書の課題は、即自対自の意味解明にある。では即自とは何か。対自とは何か。

 即自存在について、サルトルはまず次のように言う。

「存在はある。存在はそれ自体においてある。存在はそれがあるところのものである。以上が、存在現象についての暫定的な検討によって現象の存在に帰することのできる三つの特徴である。」

 要するに、即自とはただそこに存在しているだけの存在のことをいう。目の前のペンとか紙とかを、とりあえず思い浮かべておけばいい。

 それに対して対自とは、自らの存在そのものを問題にするような存在のことだ。サルトルの言い方では次のようになる。

「それが-あらぬ-ところのもので-あり」「それが-ある-ところのもので-あらぬ」


 対自存在は、今現在の自分のあり方とは違うあり方をめがけようとする、そのような存在のことなのだ。

 つまりこれは人間のことだ。人間存在は、ただそこに存在しているだけの即自存在とは違って、常に己の存在それ自体を問題にして生きるような存在なのだ。


2.無

「「無」を世界に到来せしめる「存在」は、その「存在」において、その「存在」の「無」が問題であるような一つの存在である。いいかえれば、「無」を世界に来らしめる存在はその存在自身の「無」であるのでなければならない。」

 「無」とは何か。それは、対自存在(人間)が世界や自己に対して「ノー」と言えるということだ。


「人間は、無を世界に到来させる存在である」



3.自由

 こうして、人間は常に世界や己を「無化」しようとすることができる存在である。

 というより、人間はそもそもそのような「無化」をしてしまう存在である。

 サルトルによれば、ここにこそ人間の「自由」がある。

「人間的自由は人間の本質に先だつものであり、本質を可能ならしめるものである。人間存在の本質は人間の自由のうちに宙に懸けられている。それゆえ、われわれが自由と呼ぶところのものは、《人間存在》の存在と区別することができない。人間はまず存在し、しかるのちに自由であるのではない。人間の存在と、人間が《自由である》こととのあいだには、差異がない。」

 しかし人間は、自ら選んでこのような「自由」な存在になったわけではない。別に一切を「無化」したいと思って生まれてきたわけではない。だからサルトルは次のように言う。

「絶対的な出来事、すなわち対自という出来事は、その存在そのものにおいて偶然的である。」

「かかる偶然性を、われわれは対自の事実性facticitéと名づけるであろう。」

 気づいたら、私たちは「自由」な者として、一切を「無化」しうるものとして存在してしまっていた。

「私は自由であるべく運命づけられている。 Je suis condemné à être libre.」

「われわれは、自由へと呪われているのであり、自由のなかに投げこまれているのである。」

 さらにサルトルは続ける。

 われわれは自由であるべく運命づけられているのだから、われわれが生きるとは、つまり選択するということにほかならない。

「人間存在にとって、存在するとは、自己を選ぶse choisirことである。」

「われわれは、われわれ自身を選ぶことによって、世界を選ぶ。――ただし、即自的構造において、世界を選ぶのではなく、意味において、世界を選ぶのである。」


4.他者

 続けてサルトルは言う。私たちが自由であるということは、私たちが「無化」したいと思う「所与」「状況」があるからだ。

 その「所与」とは、私が否応なく閉じ込められた「私の場所」であったり、「私の過去」であったり、「私の環境」であったり、「私の隣人」であったり、「私の死」であったりする。

 その中でも、サルトルは特に「私の隣人」、つまり他者について入念に論じる。

「いかなる瞬間にも、他者は、私にまなざしを向けている。」
「他者のまなざしによって、私は、世界の一つの「かなた」un au-delà dumondeが存するという、具体的な体験をもつ。」

 私たちは自分独自の世界を生きている。しかしそれは決して独我論的世界になることがない。なぜなら私たちは、常に他者の「まなざし」を意識しているからだ。

 私が見ている世界と同じ世界を、あるいは時には別の世界を、共に見ている「他者」がいる。
 
 この体験は根源的なものだ。サルトルは言う。

「他者は、すでに与えられている。しかも他者は、私の宇宙に属する存在としてではなく、純粋な主観として与えられている。それゆえ、定義上、私が認定することのできないこの純粋な主観、すなわち私が対象として立てることのできないこの純粋な主観は、私が私を対象としてとらえようとしているときにも、つねにそこに、手のとどかないところに、距離をもたずに存在している。」

 ということは、われわれは常に、他者を根源的なものとして扱わなければならない。そうサルトルは言う。

「したがって、それは、一つの明らかに義務的な性格をもつ。」

「存在するために私の自己拘束を要求するような一つのア・プリオリ、私のこの自己拘束にまったく依存しながら、しかも、それを実感しようとするあらゆる試みのかなたに、一挙に身を置くような一つのア・プリオリ、それこそは、まさに一つの命令impératifでなくして何であろうか?」

 そして言う。状況を存在せしめる対自とは、その存在それ自体がすでに絶対的責任なのだ、と。

「この絶対的な責任は、受諾ではない。この絶対的な責任は、われわれの自由の帰結の単なる論理的要求である。」

 自由であるということは、まったく同じように責任であるということだ。

 サルトルはそのように言う。

 人間たるもの、自らの生き方に全面的に絶対的な責任をもって生きよ。そうサルトルは命じるのだ。


(苫野一徳)



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