デカルト『省察』


はじめに



 神についての問題と精神についての問題の2つは、神学によってよりはむしろ哲学によって論証されねばならない。そうでないと、信仰なき人々を納得させられないからである。

 こう言って、神と精神の問題を哲学的に解明することを試みた本書。

 世界の実体は精神物質の2つからなると論じた、いわゆるデカルト的二元論が展開された本としても有名だ。

 ちなみにこの二元論は、その後スピノザライプニッツによって克服が試みられることになるが(私の考えではそれは決して成功しているとは言えないが)、デカルト自身も、その『情念論』によって一定の解決を試みている。(スピノザ『エチカ』ライプニッツ『モナドロジー』デカルト『情念論』のページ参照)

 以下では、本書においてデカルトが哲学的命題として著した、6つの「省察」を紹介しよう。


省察1

「私がかつて真であると思ったもののうちには、それについて疑うことの許されないようなものは何もない。そこで私は、真理の源泉である最善の神がではなく、ある悪い霊がわたしを誤らせようとしているのだ、と想定してみよう。」

 私が見ているものは、もしかしたら「悪い霊」に見せられている幻想であるかも知れない。

 私たちは、そのように一切を疑うことができる。

 一切は懐疑可能であるという、デカルト的懐疑を象徴する一節だ。


省察2

 しかしデカルトは、続けて次のように言う。

「私はある、わたしは存在する。これは確かである。」

 『方法序説』でも見たように、一切は懐疑可能だが、しかしこの「疑っている私」自身を疑うことは、どうしてもできない。(デカルト『方法序説』のページ参照)

 しかし「私」の存在は、いついかなる時も確かであるというわけではない。

 「私」の存在が確かなのは、私が考えている間だけである。

「それゆえ、厳密に言えば、私とはただ、考えるもの以外のなにものでもないことになる。いいかえれば、精神、すなわち知性、悟性、理性にほかならないことになる。」

 こうしてデカルトは、「私」を身体からは切り離された精神として捉えることになる。

 ここでデカルトは、有名な蜜蝋の例について述べる。

「たとえば蜜蝋をとってみよう。この蜜蝋を火に近づけてみるとどうであろう。これでもなお同じ蜜蝋か。そうである。ではこの蜜蝋においてあれほどはっきり理解されたものはなんだったのか。おそらくそれは、今私が考えているものだったのである。しかし私がこのように想像するところのものは何であるのか。」

「結局、こう認めるほかない。この蜜蝋がなんであるかを、私は結局想像するのではなく、精神によってとらえるのである。」

 さらに彼は続いて、やはり有名な帽子と衣服の例を挙げている。

「今通り行く人を窓越しに眺めてみる。しかし私が見るのは帽子と衣服だけではないか。しかし私は精神のうちにある判断の能力によって、それを人間だと判断しているのである。」


省察3

 さて、以上のようにきわめて原理的な哲学原理を提示したデカルトだが、ここへ来て、『方法序説』でも試みられた「神の存在証明」がなされることになる。

「無からは何も生じ得ないばかりでなく、より完全なものはより不完全なものからは生じ得ない。したがってより完全な存在者の観念は神から与えられたものである。」

「この神の観念も、生得的である。神の観念を持つものとして存在することは、神もまた存在するのである。」

 しかしこれは、結論ありきの誤謬推理だというほかない。デカルトにおける神の存在証明は、決して成功しているとは言い難い。


省察4

「神は私を欺かない。」

 にもかかわらず私たちが無数の誤謬にさらされているのは、私の意志の不完全さのゆえである。

 続いてデカルトはそのように言う。

「私が意志を、悟性と同じ限界内にとどめおかずに、私の理解していない事柄にまでおよぼすとき、誤謬が生じるのである。そこで、意志の決定にはつねに悟性の把握が先行していなくてはならない。」

 これは後のカントにも通ずる洞察と言えるだろう(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 私たちが自らに可能な認識の限界を超えて何かを意志する時、私たちはいわば、身の程をわきまえない過ちの罠に自らかかってしまっているのである。


省察5

「物質的な事物が私の外に存するかどうかを問う前に、事物の観念を、私の意識のうちで考察し、どれが判明でどれが混乱しているかを見ておこう。
 まず私は、量を判明に想像する。さらに形、数、運動、その他同様のものについて、無数の特殊な事柄をも認識する。
 また、私の外にはどこにも存在しないであろうが、しかしそれでも無であるとはいえないものがある。たとえば三角形の観念である。」

 これは、人間の認識にもともと備わっている認識枠組みを明らかにしようとした試みと言っていいだろう。その後カントが純粋悟性のカテゴリーとして描き出したものと、相当に似通っている。


省察6

「感覚は欺く。が、私はただ思惟するものである。身体なしに存在しうるのである。身体は過分的だが、精神は不可分である。」

 これが、デカルトにおける身体と精神の二元論である。

 しかしデカルトは、続けて次のようにも言っている。

「神は欺かない。よって、感覚を偽だと気がかりになる必要はないのである。」

 「我惟う、故に我あり」の原理に比べれば、心身二元論や神の存在証明は、デカルト哲学の極めて問題の大きい難点だ。

 私の考えでは、デカルトの最大の功績は、懐疑主義を論駁し、哲学的な思考の出発点を「私」の観念に定めた点にこそある。

 ただしこのデカルトの思想は、独我論として、今日激しく批判されてもいるものである。

 この点については、私の考えでは、20世紀、デカルトを継承しつつフッサールが最も先鋭な形で回答を与えている(フッサール『イデーン』のページ参照)。

 また、神の存在証明は18世紀のカントによって否定され、心身二元論は、やはりフッサールによって克服されることになる(心身論は一般にフッサールを継承したメルロー=ポンティが展開したとされているが、私の考えではフッサールの方がその克服の仕方は原理的である。〔フッサール『イデーン』およびメルロー・ポンティ『知覚の現象学』のページ参照〕)

(苫野一徳)

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