バタイユ『エロスと涙』

はじめに

 エロスとは笑いに結びついた悦楽である。しかしそれは、実は死の涙と裏表なのである。

 絵画など200点を越える図版を交えながら、人間的エロティシズムの本質にせまったバタイユ晩年の著作。

 主著『エロティシズム』の主題を、より簡明な表現で描き直した著作でもある。

 最後の最後まで、バタイユの著作はおどろおどろしいまでの刺激に満ちている。


1.エロティシズムと死

「本書の意味は、第一歩において、《小さな死》と究極的な死との同一性へと意識を開くことである。悦楽から、熱狂から、際限のない恐怖へ。」

 バタイユの変わらぬ主張は、エロティシズムとが密接につながり合ったものであるということだ。

 エロスの喜びは、死のと裏表である。

「なるほど、死の中にある無作法は、性活動が持っている卑猥さとは異なっている。死は涙に結びついているが、性欲は時として笑いに結びついているのだ。けれども、笑いは、見かけほどに涙の反対物ではない。笑いの対象と涙の対象とは、つねに、物事の規則的な流れ、習慣的な流れを中断するなんらかの種類の激しさに関係するのである。」

 本書において、バタイユはそのことを歴史を通していわば例証していく。



2.エロティシズムと労働

「もしも私が人間一般を理解しようとしつつ、とくにエロティシズムを理解したいと思うならば、最初に一つの義務が私に課される。それは、まず始めに、第一の地位を労働に与えなければならないということである。」

 ラスコー洞窟の絵画などについて論じながら、バタイユは人間を動物と区別する最大の条件として労働を挙げる。

「動物が人間になったのは、労働によってなのだ。」

 労働とは目的をもった行為である。そしてバタイユは言う。エロティシズムもまた、意識的な目的をもった行為なのであると。

「エロティシズムが動物の性的衝動と異なるのは、それが、原則として、労働と同様に、目的の意識的な追求だという点においてなのであって、その目的とは、官能的悦楽なのだ。」

 労働が人間を動物から区別する第一のものであるとするなら、エロティシズムもまさに、人間を動物から区別するものなのである。 



3.エロティシズムと宗教

 また、エロティシズムは宗教と切り離せないものである。

「宗教はエロティシズムを断罪すると主張することは陳腐である。実は、本質的には、エロティシズムは、その起源においては、宗教的な生活に結合されていたのだ。」

 たとえば、キリスト教はエロティシズムを断罪した。しかしまさにこのことによってこそ、人々のエロティシズムはますます燃え上がることになったのである。

 キリスト教の役割は、エロティシズムの観点からみれば、エロティシズムをますます深みへと到達させることにあった。

 バタイユは、実はそれは、キリスト教の中にそもそもエロティシズムへの欲望が充溢していたからだとみているようである。

「まさに、この断罪によってこそ、キリスト教自身が、熱烈な価値に到達したのだ。」

 このほかにも、バタイユは18世紀の絵画や思想、文学などを例に挙げながら、エロティシズムの本質にせまっていく。



4.意識によって

「われわれの知っているとおり、われわれには意識以外に解決策がないのだ。この書物は、著者にとっては、一つの意味しか持っていない。それは、この書物は自己意識へと開くということである!」

 『呪われた部分』でもみたように、バタイユには、人間の未来への一種の危惧があった。

 それは、すべてが有用性効率性に還元されてしまうことで、人間のよりどろどろした本質部分の行き場がなくなってしまうのではないかという危惧だった。そしてそれが、第3次世界大戦という形をとって爆発してしまうのではないかという危惧だった。

 本書においても、バタイユは言っている。

「富の増大は、戦争を唯一の解決策とする過剰生産に導くのである。私は、エロティシズムが、富の常軌を逸した増大に結びついた悲惨の脅威に対する唯一の対応策だと言うわけではない。まったく違うのだ。けれども、エロティックな享楽を典型とする戦争とは対立的な多様な消費――さしあたり、エネルギーの消費――の可能性の計算なしには、われわれは、理性によって基礎づけられる解決策を発見することができないであろう。」

 人間にはエロティックな享楽が必要である。そのようなエネルギーの消費がなければ、人はバランスをとって生きてはいけない。そしてそのことを、われわれは意識によって、理性によって、自覚しなければならない。

 バタイユは、ただただエロティックな欲望のとりこになれと言っているのではない。人間にはそのような形のエネルギー消費が必要だということを、理性によって自覚せよと言っているのだ。

 そうでなければ、すべてが効率性に還元された社会において、人々の鬱憤したエネルギーは悲劇的な形で爆発してしまうことになるだろう。


5.恍惚と恐怖

 本書は中国の処刑の写真でしめくくられている。

 しばりつけられ、生きたまま皮と肉を剥がれ、骨がむき出しの状態で恍惚の表情を浮かべる罪人の写真である。

 バタイユは言う。

「この写真は、私の人生において、ある決定的な役割を持った。私は、この恍惚的(?)であると同時に耐え難い苦痛の像によって付き纏われることをやめなかったのである。」

 罪人には、どうやら阿片がもられているらしい。しかしそれでもなお、バタイユは、ここに恍惚と恐怖の同一性が見出せると主張する。

「突如として私に見えてきて、私を苦悶の中に閉じ込めてしまったもの――しかし、同時に、そこから私を解放してくれたもの――それは、神々しい恍惚に極度の恐怖を対置する完璧な反対物の同一性であった。」

 総じてバタイユの著作はすべて彼の趣味の報告と言ってもいいものだが、本書のこの部分は、特にそのおもむきが強い。

 しかし確かに、恐怖と恍惚が同一的で「ありうる」ことはあるだろう。

 それが「いつでも」同一的であるというわけではないにしても。 
 
(苫野一徳)

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