アーレント『人間の条件』



はじめに

f:id:Hyperion64:20110625132326j:image ドイツ出身のユダヤ人、アーレント。ナチスの迫害を逃れて後にアメリカに渡った彼女の、その英語による著書は実に読みにくい。問題の核心に迫りそうで迫らない回りくどい書き方や、博識をひけらかすような挿話の数々が、いっそう彼女の本を読みにくくしている。

 しかしそれでも、彼女が提起した問題と、その解決の可能性は、一流思想家の面目躍如たるものがある。

 本書は、人間の活動的生活を労働、仕事、活動という3側面から考察した、アーレントの主著。私たちはどうすれば「自由」に、そして「豊かに生きる」ことができるのだろう。その本質的な洞察が力強く示されている。


1.労働、仕事、活動

「〈活動的生活〉vita activaという用語によって、私は、三つの基本的な人間の活動力、すなわち、労働、仕事、活動を意味するものとしたいと思う。」

 有名な、活動的生活における労働、仕事、活動の概念装置。

 労働とは、生命維持に必要な活動のこと。

 仕事とは、人工的世界を作り出す活動のこと。たとえば職人が椅子を作ったりするのがそれだ。

 そして活動とは、人びととの関係性においてなされる活動のことだ。言論活動や商業活動などがそれにあたる。

 アーレント自身ははっきりとは言わないのだが、私の感じでは、この区分は、「われわれが社会において豊かに生きるにはどうすればよいか」を考える際に、ずいぶんと役に立つ。以下、この観点から本書を紹介していくことにしたいと思う。


2.社会的領域の出現

 上記の問題を考えるにあたって、アーレントは、まず社会なるものの勃興について歴史的に明らかにしていく。

「厳密にいうと、私的なものでもなく公的なものでもない社会的領域の出現は、比較的新しい現象であって、その起源は近代の出現と時を同じくし、その政治形態は国民国家に見られる。」

 古代ギリシアにおいては、公的領域(ポリス)私的領域(家族)ははっきりと区別されていた。そうアーレントは言う。

 家族というのは、「必要」に支配された自然的共同体のこと。生きるためには、家族が協力して日々の糧を稼がなければならない。

 それに対してポリスは、こうした生物的必要を克服した者たちが、「自由」になるための共同体である。生物的必要にとらわれない者たちが集まり、自分たちのことを自分たちで決める「自由」な生活を営んだ。

 古代ギリシアでは、「自由」になるためには、まずもって生物的必要を克服する必要があった。しかしそれは、ただ労働と生産だけに従事する、奴隷の存在があってこそ可能になるものでもあった。

 一方、近代において私たちの「自由」はどう担保されうるか。


 近代においては、まず万人の「自由」が解放された。

 それは要するに、各人が自らの生物的必要を、自ら満たさなければならなくなったということだ。

 私たちはもはや、「奴隷」に私たちの生存に必要なものを生産してもらうわけにはいかないのだ。

 こうして近代は、各人をまず「労働する動物」にした。

「近代の共同体はすべて、たちまちのうちに、生命を維持するのに必要な唯一の活動力である労働を中心とするようになったのである。」

 そこから、近代において「社会」なるものが発生することになった。アーレントはそう指摘する。

 まず、労働する動物たる人間は、徐々に財産を獲得していくようになる。そして、これが「公的」なものによって保障されることを望むようになる。

 つまり、それまでは「私的」(家族)領域を超え出て「公的」(ポリス)領域があったのに対し、「私的」領域を、「公的」領域によって保護してもらおうという発想が現れたのだ。


 こうして「私」と「公」の厳密な区別はなくなり、これらが相互にからみあう「社会」という領域が出現した。アーレントはそう主張する。

 さらに、近代は分業によって生産が爆発的に拡大した時代でもある。


 これはつまり、各人の「労働」が、孤独な作業ではなく、人々の関係の中で営まれるようになったということだ。このような関係の網の目のこともまた、アーレントは本書において「社会」と呼ぶ。
 

3.労働優位の近代

 以上見てきたように、近代は労働優位の時代である。一切は労働を通した生産価値によってはかられるのだ。

「私たちはすでに、富というものを稼ぎと消費の力で計算するような社会に生きているのである。そして、この稼ぎと消費の力というのは、人間の肉体が行なう新陳代謝の二つの側面の変形にすぎないのである。」

 労働によって生活に必要なものを手に入れ、これを消費する。このような一種の新陳代謝の連続だけが、われわれの生活になっている。アーレントはそう指摘する。

「私たちがなにをしようと、それはすべて『生計を立てる』ためにしていると考えられている。それが社会の判断である。」
 
 
4.仕事をする工作人

 労働する人間が、日々の生活の奴隷と化しているのに対して、仕事をする工作人こそはこの世界の支配者である。そうアーレントは言う。


 彼らは自由に、自らの世界を作ることができるからだ。

「ただひとり未来の生産物についてイメージをもつ〈工作人〉だけが自由に生産し、自分の手の仕事を自由に破壊するのである。」

 しかし近代においては、こうした工作人の作品もまた、結局のところは消費物として消費されている。
「労働する動物」であろうと「仕事をする動物」であろうと、いずれにせよ人間は、Whatとしての存在に還元され、Whoとして捉えられてはいないのだ。

 こうして人間は、徹頭徹尾交換可能な存在となってしまった。アーレントはそう指摘する。
そしてそれは、決して「豊かな」生ではないはずだ、と。

 では私たちの生は、いかにすればより豊かなものになりうるか。

 アーレントが提示するキーワードは、「活動」である。


5.活動

「人間は、言論と活動を通じて、単に互いに『異なるもの』という次元を超えて抜きん出ようとする。つまり言論と活動は、人間が、物理的な対象としてではなく、人間として、相互に現われる様式である。」

 私たちは、ただ交換価値として「何であるか」(what)とみられるのではなく、その人自身として「誰であるか」(who)とみられるのでなければならない。


 それがアーレントの洞察だ。そしていう。そのために、私たちは「言葉」と「行為」を必要とするのだと。

「なぜならこの二つの能力は、製作が使用対象物を生産するのと同じくらい自然に、有意味な物語を生産するからである。」

 ところが、この「言論」と「活動」の領域は、実に不安定な世界である。人間は多様だから、どのような「言論(思想)」が現われるか分からないし、どのような「活動」が力を持つかも分からない。

 しかしだからといって、これを統制することは決して人間的生を豊かにするものではない。そうアーレントは言う。

 自由な「言論」と「活動」の領域がどれだけ担保されうるか。


 これが、私たちが豊かに生きられる、つまり自らが「誰であるか」を他者と交換し合える最大の条件だ。

 ではこの領域の不安定さは、どうやって克服できるだろうか。

 アーレントの考えは次のようだ。

「活動が始める過程の不可逆性と不可予言性にたいする救済は、それとは別の、なにかいっそう高い能力からやってくるのではなく、活動そのものの潜在能力の一つが救済に当たるのである。不可逆性というのは、人間が自分の行なっていることを知らず、知ることもできなかったにもかかわらず、自分が行なってしまったことを元に戻すことができないということである。この不可逆性の苦境から脱けだす可能な救済は、許しの能力である。これにたいし、未来の混沌とした不確かさ、つまり、不可予言性にたいする救済策は、約束をし、約束を守る能力に含まれている。」

「主権というのは、人格という個人的な実体であれ、国民という集合的な実体であれ、孤立した単一の実体によって要求される場合、常に虚偽である。しかし、相互の約束によって拘束された多数の人びとの場合には、ある限定されたリアリティをもつ。この場合の主権は、結果的に、未来の不可測性をある程度免れている場合に生まれる。その程度というのは、約束をし、守る能力そのものに含まれている限界と同じものである。」

 許し約束の能力。

 これが、「言論」と「活動」を通して豊かに生きるための条件だ。アーレントはそう主張する。

(苫野一徳)

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