シェーラー『同情の本質と諸形式』

はじめに

 同情Sympathie)とは何か。それは、相手のそのあるがままにおいて、相手と共に喜び共に苦しむことである。真の共同感情に、我欲や利己主義的要素は一切ない。

 ではとは何か。それは、あるがままのものとしての相手の、そのより高い価値を浮かび上がらせるものである。

 人間感情の現象学として、とてもすぐれた分析を見せてくれる本書。とはいえ本書もさすがは現象学の書。相変わらず長たらしい。しかしそれでもなお、キラリと光る珠玉の言葉が散りばめられている。

 私は、シェーラーによる同情と愛の現象学的本質観取を、とてもすぐれた洞察だと考えている。しかし同時に、大きな問題も見出さないわけにはいかない。

 ひと言でいえば、それはキリスト教的愛の絶対視だ。

 シェーラーは言う。有限なる人間たちは、互いに他が他でありながらなお全人類的に愛し合うべきである。そしてそれが可能であるためには、有神論的形而上学が必要である。つまり唯一神が、神への愛を媒介にして神の名における人間相互の愛を保証する必要があるわけだ。

 このようなシェーラーの理屈は、「われわれが最高善の実現をめざすべきであるとするなら、神の存在を要請しなければならない」といった、『実践理性批判』のカントとほとんど同等のものであるように思われる。

 しかし、そのような愛がありうるということについては私も強く同意するが、そのような愛こそが愛の絶対最高形式であり、この愛こそが実現されなければならないと言う(少なくとも私にはそう言っているように読める)シェーラーの思想は、ナイーヴな理想理念であると言うべきなのではないか。

 このサイトの他のページにもしばしば書いているように、力強い哲学は、「このようであれ」と要請するのではなく、このようであることが「よい」といえるなら、それはどのような条件において可能になるか、と問う。要請の思想ではなく条件を解明する思考。これが、哲学的思考の一つの本質だろうと私は思う。

 そこで私たちがシェーラーから引き継ぐべきは、彼が示してくれた共同感情と愛の本質観取を活かして、ではそれはどのように可能かという、いわば愛の条件を解明する課題になるだろう。


1.共同感情とは何でないか

 共同感情とは何か。この問いに答えるにあたって、シェーラーは、まずこれを他のさまざまな概念から区別する。

 まず、共同感情は追感得ではない。

「『追感得』は、まだ認識する態度の領野にとどまっているのであって、決して道徳的に重要な作用ではない。」

 追感得が単なる「認識」であるのに対して、共同感情とは、その上に成立する道徳的作用である。シェーラーはそう言うわけだ。

 追感得の上に成立する作用には、しかし他にもさまざまなものがある。シェーラーはそれらを、1.相互感得、2.共同感情、3.感情伝播、4.一体感、と呼ぶ。

 相互感得とは、「『あるひととの』、たとえば同一の苦しみを、直接的に共感すること」である。

 シェーラーが本書で主題とする共同感情は、「『あることへの』共同感情、つまり、あるひとの喜び『への』共歓、苦しみ『との』共苦」である。

 感情伝播とは、単に感情が移るといっただけのこと、そして一体感とは、宗教的・秘教的高揚や、愛ある性行為などによって得られるものである。

 シェーラーは、これら諸概念をひとまず区別し分析した後、主題の共同感情の分析へと移る。



2.真の共同感情とは何か

「真の共同感情は、他人の本性と実在およびその個体性を共苦と共歓の対象へ共に引きこむ点においてこそまさしくあきらかとなる。一人のひとがその在るがままの婆において完全にして有能、純粋……等々であることを喜ぶこと以上に、よりふかい共歓があるだろうか?そしてまたかれが『そのような人間』であるがゆえに、かれはまさに苦しむように苦しむに相異ないということ以上に、よりふかい共苦があるだろうか?」
 真の共同感情、それは、相手のあるがままに、相手と共に喜び共に苦しむことだと言っていいだろう。自分ならどうだとか、自分はこう思いたいとか、そういった感情なしに、ただ相手のあるがままにおいて共に感じること、これをシェーラーは、真の共同感情であると言う。

「われわれが他人の感情状態を感得することができ、その状態を本当に『苦しむ』ことができること、しかもたとえば『共歓』の結果として『他人の感情状態にお(いて喜ぶこと』はできないが――もしそうだとすると、われわれ自身が喜ぶことになるから――、われわれ自身がこのことによって陽気な気分におちいる必要なしに喜びを『共に享受すること』ができること、これらの事実は『驚くべきこと』かもしれない。しかしまさしくこの現象こそ真の共同感情なのである。」

 まさにその通りだと言っていいだろう。
 私たちは、何の掛け値もなしにただただ相手のあるがままにおいて相手に共感することがある。シェーラーの洞察に、私はとても感銘を受ける。



3.有神論的形而上学

 しかしその後、私の考えではシェーラーの議論はとたんに原理性を失っていく。

 シェーラーは言う。ショーペンハウアーハルトマンは、人格の本質的同一性を前提とした共同感情論を展開した。つまり大ざっぱに言えば、みんな同じ人間だから、気持ちを分かち合えるのだと主張した。

 しかしシェーラーは言う。

「共同感情は、ショーペンハウアーやハルトマンの主張にみられるような、人格の本質的同一性を示しているわけではなく、むしろ反対に、真の共同感情こそ純粋な本質的差異性を(これがまた人格の実在的現存在の差異性を示す究極的根拠でもある)、あらかじめ前提している。」

 なぜなら、共同感情とは、相手を自らに取り込むのではなく、相手をそのあるがままにおいて受け入れることであるからだ。

 シェーラーは続ける。

「かくして、形而上学的に理解されるべきだとした場合の共同感情は、動物世界にもみられるような一体感情や感情伝播とは反対に、世界根拠に関する汎神論的・一元論的ではなく、有神論的(場合によっては汎一神論的)形而上学をさししめすものとなる。」

 シェーラーの意を汲み取ると、おそらく次のようになる。
 われわれ人間は、それぞれに全く異なった存在同士として存在している。しかしそれでもなお、われわれは互いに共感し合うことができる。しかも、相手のあるがままにおいて。それはいったいなぜ可能なのか。われわれを媒介する、唯一神が存在するからである。を媒介にした、隣人愛、隣人同士の共同感情。シェーラーの共同感情論は、こうしていつしかキリスト教の教義へと近づいていく。

 しかしこれは、確かめ不可能な形而上学である。フッサール現象学が、せっかく、何が真の世界かを問うのではなく、そうした形而上学的世界観もまた私たちの「確信」であるとするなら、その確信はどのように成立しているのかを問おうと問いの立て方をひっくり返したのに、フッサールの弟子のシェーラは、再び形而上学的世界観を「前提」にしてしまったのだ。



4.愛

 ともあれ、こうしてシェーラーの議論は必然的にへと移行していく。より正確に言えば、キリスト教的愛が最高であることの論証へと移る。

 まず、愛とは自我と他者との合一的現象であると論じたヘーゲルやハルトマンに反して、シェーラーは次のように言う。

「他人をあたかも自分自身の自我と同一であるかのようにみなし遇することは、決して愛の『最もふかい意味』ではない。愛は、単なる『我欲の量的拡大』ではだんじてないし、また『全体』としてひたすら(利己主義的な)自己保存、自己促進あるいは自己の成長にのみ腐心する、全体のなかのある一部といった関係ではない。」

 それは結局、相手を自らに取り込む我欲に過ぎないからである。

「むしろこの愛は我欲である。まさにこのような態度こそ特発性一体感において現にみられたような、隣人を暴力的・情緒的に抹殺し破産宣告する態度である。」

 あるいは仏教の説く愛も、シェーラーに言わせれば所詮は自らの解脱のための道具に過ぎない。

「仏陀が愛において積極的に評価しているもの、それは他の箇所で指摘したように、わずかに、愛が『心胸の解脱』であって決して積極的なその至福ではないこと、愛が他人に奉仕する慈悲ぶかい行為のいわば『偶然の』結果をともなう一つの技術、つまり人間がそれによってかれの個体的自我の完結性をやぶる、否、むしろ『沈潜』の最高段階においてかれの個体性と人格からおしなべて脱却する技術をしめすにすぎない、ということである。」

 それに対して、キリスト教の愛は、「すべてのものに優越して神を愛し、汝自身のごとく汝の隣人を愛する」ということであり、それは、「他人の自我の実在性を自己自身の自我の実在性にまで『神において』高める」ことを意味している。シェーラーにとっては、これこそが愛の最高の形式である。



5.愛へいたる階梯

 そこでシェーラーは、このキリスト教的愛にいたるまでのいわば階梯について、本書において続けて論じる。

 それは一行で表すなら、

「一体感追感得共同感情人間愛人間と神に対する無宙論的な愛」

 となる。

 幼児における母や世界との一体感を基礎にして、他人の感情を追感得できる心が育ち、それが共同感情の能力となり、そしてそのより高次な愛へと至る。その最高形式は、神ニオケル愛」を土台とした、神ヲ愛スルコト」である



6.愛と憎しみの現象学

 こうしてシェーラーは、愛とは何か、そしてその反対概念の憎しみとは何かについて、さらに詳しく分析を展開する。

「愛が『より高い価値存在』へむかっての運動であるという点にこそ、愛の(プラトンによってすでに認識されたと同じように)創造的意義が存在する。〔中略〕これに反して憎しみは、それが(これらの領域に対し)事実上より高い価値を破壊するがゆえに、またその結果として諸価値を認知しながら、先取したり感得したりする眼をくもらせ盲目にするがゆえに、最も厳密な言葉の意味において『破壊的』である。」

 つまり愛とは、あるがままのものとしての相手のより高い価値を浮かび上がらせる運動のことである。それに対して憎しみは、そもそもの価値を破壊する運動である。

 愛について、シェーラーはさらに次のようにも言っている。

「愛そのものは、愛される対象に新しい価値を「探し求める態度」では決してない。まさにその反対である!」
「愛の純正さは、われわれが具体的対象の『短所』をたしかに知っているにもかかわらず、その対象をこの短所とともに愛するときに、終始、あらわにしめされるのである。」

 愛とは相手にないものを求めるのではなく、相手のあるがままを、そのあるがままでありながらより高い価値として浮かび上がらせるような運動である。

「愛そのものとは、対象においていまやそのつどより高い価値を、まったく持続的にしかもその運動の経過のうちに浮かびあがらせるものである。」

 シェーラーはさらに言う。

「人格価値に対する愛、すなわち、人格価値をつらぬく現実性としての人格に対する愛は、すぐれた意味における道徳的愛である。」

 相手を諸理由によって愛するのではなく、人格価値をつらぬいて愛するということ、これこそが道徳的愛であり、さらには絶対的愛であるとシェーラーは言う。

 愛についての、見事な洞察だと私は思う。確かに私たちには、そのような愛を確信できる時があるだろう。

 ただしそれは、誰にでも可能というわけではないし、またさらに、誰もがこの愛を目指さなければならないというわけでもないだろう。冒頭でも述べたように、私たちはこのシェーラーの洞察を引き継いで、彼がかなりの程度「要請の思想」として論じた愛の哲学を、その「条件を解明する」という仕方で展開し直していく必要がある。

(苫野一徳)



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