ハーバーマス『近代の哲学的ディスクルス』

はじめに

 いかにも碩学な知識人、といった感じのハーバーマス。

 近代哲学は、主体の哲学とか主観の哲学とかいわれている。ポストモダン思想はこれを脱構築することを仕事としたが、それに対してハーバーマスは、これを対話的理性として再構築しようとする。

 幅広く強靭な学識に支えられたハーバーマスは、時に衒学趣味かとも思えるほどに、本書で自らの知識を披瀝する。


1.ヘーゲル批判

「ヘーゲルは、自己の実体を基盤にして自己意識に至るような、主体の絶対的自己言及を措定する。絶対者は実体として、あるいは主体として捉えられるのではなく、いかなる条件にも拘束されずに自己生産を行う自己言及の仲介過程として捉えられる。」

 ヘーゲル哲学の体系には、まず「絶対者」(=神)があり、そして世界史は、この絶対者が自らを実現していく過程として描かれている。

 ハーバーマスは、このようなヘーゲルの「絶対者」という考え方が、彼をして「国家」と「立憲君主制」をある種不可侵のものとして措定させることになったのだ、と批判する。

 「国家」や「立憲君主制」の正当性を、ヘーゲルは絶対者の自由精神の実現形態としてとらえた、とハーバーマスはみるわけだ。

 このようなヘーゲル批判は、確かにある面ではまっとうなものだし、半ば「常識化」されてきたヘーゲル観でもある。

 しかし、ここで詳論は控えるが、それは実は一面的な理解であるということが、今日多くの研究によって明らかにされていることも付け加えておきたい(たとえば福吉勝男『自由と権利の哲学―ヘーゲル「法・権利の哲学講義」の展開』ジャック・ドント『ヘーゲル伝』などを参照)。

 そして私も、ハーバーマスよりは、福吉氏やドントのヘーゲル理解を共有している。

 しかしこの点については、ここではさておき、次に進むことにしよう。

 
2.ニーチェによる転換

「理性はまずは自己認識による宥和であった(ヘーゲル)。次には人間的諸力の獲得による解放(マルクス)であり、そして最後に追想による補償(ヘーゲル右派)であった。そのいずれの場合にあっても、理性は近代における分裂を、近代固有の駆動力によって克服しうるものとなるはずであった。」

 ハーバーマスによると、ヘーゲルによって完成した近代哲学も、その後のマルクス主義(ヘーゲル左派)もヘーゲル右派も、いずれも結局は理性によって世界を認識したり、あるいは世界を変革したりすることを志していた。

 しかしニーチェは、この「理性」主義を根底からひっくり返してしまった。

 このこと自体は、ハーバーマスは評価しているようだ。しかし彼は次のようにニーチェを批判する。

「理性に対抗する別の審級として、ニーチェは主観性の自己暴露の経験を呼び起こす。しかしそこではニーチェは、すべての存在するものを美的な次元に還元せざるをえない。しかし美的なものは、理性の他者として偶像的に実体化されている。」

 絶対的に客観的なものはなく、これを理性によって認識しようなど、背理である。

 すべては主観の遠近法によって織りなされた世界像だ。

 ニーチェはそう言ったわけだが、ここからハーバーマスは、ニーチェは結局は「理性」を脱中心化するにとどまった、と批判する。


3.『啓蒙の弁証法』再読

 続いてハーバーマスは、ホルクハイマーアドルノの『啓蒙の弁証法』を批判する。

 彼らが論じたことは、あらゆる啓蒙のプロセス(学問)は、妥当請求にみえて実は権力の要求である、ということだったホルクハイマー=アドルノ『啓蒙の弁証法』のページ参照)

 となると、文化批判はいったいどの基準からなされればいいのか、われわれはアポリアを抱えることになる。ハーバーマスはいう。

「なんらかの理論を立てようとする試みはすべて足元を突き崩され、基盤を欠いたものとなってしまう以上、彼らはおよそ理論一般を断念し、そのつどの〈限定否定〉を実践として行おうとする。」

 しかしそれは、ほんとうに妥当なことなのか。ハーバーマスはそのように問う。

 続いてハーバーマスは、ハイデガーの存在の運命への聴従とか、デリダのアナーキーな思考とか、あるいはバタイユの「至高性」理論などを概観し批判する。


4.フーコー「権力理論」批判

 主観性の哲学を脱却したかにみえるフーコーもまた、この哲学から自由でない。ハーバーマスはそのようにフーコーを批判する。

「フーコーの知の系譜学のアポリアは、意図せざる現在中心主義、不可避の相対主義、そして恣意的な党派性、である。」

「あらゆる知への意志の客観主義的幻想を暴きだすことは、歴史の記述を歴史学者の立場に都合よく合わせるはめにおちいる。」
 
 この恣意性と、そしてまた、すべてを権力として批判するその批判それ自体も、相対化をまぬがれえないという矛盾を抱える。ハーバーマスはそのようにフーコーを批判する。


5.対話的理性

 ここでようやく、ハーバーマスの考えが前面に出てくるようになる。

「対象認識のパラダイムは、言語能力および行為能力のある主体相互の了解のパラダイムによって取って代わられることになる」

 これまでの主観哲学は、客観世界を認識するのは「主観」であると考えていた。

 しかしこれは、了解志向的行為の観点に立つと、相互作用参加者こそがその主役にとってかわるのだ。

 そうハーバーマスはいう。

 そうなると、重要な「知識」とは絶対客観的な知識ではなく、実践的なルール知識となる。

 このハーバーマスの指摘は、まったくまっとうなものだと私は思う。

 絶対客観的な知識を求める「純粋理性」など、はじめから存在しない。そうハーバーマスはいうわけだ。

「理性は、はじめから対話的行為の連関および生活世界の構造のなかに肉体化した理性なのである。」

 ちなみに、この対話的行為理論はプラグマティズムの伝統を受け継ぐとハーバーマスは言っているが、ここから、デューイとハーバーマスの比較研究が、非常に盛んにおこなわれるようになった。

 
6.生活世界

  生活世界は、対話的行為と相補的な概念である。ハーバーマスは言う。最後にこの概念について見ておこう。

「生活世界は、文化・社会およびパーソナリティに別れる。文化とは、対話的行為を遂行する者が、世界内のなかのなにものかについて了解しあうことで、合意できる可能性の高い解釈を提供しようとするさい、その源泉となる知識の集積のことである。社会とは、その連帯性を創出するさいに、その源泉となる正当性を認められた秩序のことである。パーソナリティとは、主体が言語能力と行為能力を形成して、相互了解のプロセスに参入しみずからのアイデンティティを確保することを可能にする能力——それも学習のプロセスで得た能力のことである。」


(苫野一徳)

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