ミル『功利主義論』

はじめに

 今日、功利主義は厳しい批判にさらされている。

 ベンサムの「最大多数の最大幸福」に象徴されるこの思想は、弱者を考慮しないものだと、多くの人の反発を買っている。

 しかし私は、これら批判の多くは誤解にもとづいたものだと考えている。

 あるいはここで批判されている功利主義は、ミルの考えたものとは異なったものである。

 現代政治学の世界では、功利主義の公準は、一般に社会生産の最大化にあると解釈される。

 つまり、社会全体が裕福になれば、能力のない人にも分配されてうるおうのだから、能力のある人にたとえば教育費をかけ、能力のない人にはそれ相応の教育を与えておけばよい、という考えだ。

 私に言わせれば、このような考え方は断じてミルのものではない。こうした理解のもとにある功利主義を、私は通俗的功利主義と呼んでいる(もっとも、ミルは確かにそうした誤解を生むような言い方もしているのだが。)

 ミルの功利主義の本質は何か。少し本書を散歩してみることにしよう。


1.本書のテーマ

「人間の知識の現状をみてわれわれが意外に思うのは、正邪の基準に関する論争の決着をつける仕事に、ほとんど進歩がみられないことである。」

 何が正しいことで、何が間違ったことか。

 哲学はこれを長い間問い続けてきたが、結局ほとんど進歩がみられなかった。

 たとえば彼は、カントを次のように批判している。

「カントの定言命法に関して、彼が、すべての理性的存在が不道徳きわまる行為準則を採用することは背理であり論理的にありえないことが示せないのは奇怪というほかない。」

 『実践理性批判』のページでも書いたが、カントの定言命法は、確かに非現実的というほかない(カント『実践理性批判』のページ参照)。

 そこでこの問題に決着をつけてやろう、というのが、ミルの壮大な試みなのだ。



2.功利主義


 カントとは違って、ミルは、正邪の基準は絶対的な道徳法則というものにあるのではなく、個々人の感情や判断にしか存しないという。

 つまり、自分にとってそれが幸福であること、「正しさ」はそこからしか判断しえないというのだ。

 しかし続けてミルはいう。


「もっともそれは、功利主義の基準を認めるうえで不可欠な条件ではけっしてない。というのは、功利主義の基準は、行為者自身の最大幸福ではなく、幸福の総計の最大量なのだから。」

 これは重要な指摘だ。

 確かにわれわれは、「正しさ」を自分の幸福と相関的にしか考えることはできない。

 しかしこの各自の「正しさ」は、相互に対立することがある。となれば、どの人の「正しさ」が絶対的に正しいかではなく、その基準は、社会全体が幸福になるという点に定められることになる。

 そうミルはいうわけだ。

 これは、ルソーの「一般意志」と同様とても原理的な考えだと思うが(ルソー『社会契約論』のページ参照)、しかしミルの、この「総計」という言い方が確かに誤解を生みやすい。

 「総計」といえば、ある人の幸福はこれを犠牲にしてもよい、と考えられてしまう可能性があるからだ。

 しかし私の考えでは、ミルの考えは断じてそのようなものではない。その証拠に、彼は次のように功利主義の公準を言い直している。

「功利主義が正しい行為の基準とするのは、行為者個人の幸福ではなく、関係者全部の幸福なのである。」

 つまりある特定の「幸福」が正しいとされるのではなく、関係者全員がこれを「幸福」と思うものが正しいとされるのだ。

 先述したように、私はこれをルソーの「一般意志」と同義であると考える。

 しかし「一般意志」にせよ功利主義にせよ、なかなかその意味は理解されない。
 
 これらに対する批判は、関係者全員の「幸福」など不可能だ、とか、全員一致は「全体主義」につながる、とか、あるいはこれは「利己主義」に基づいている、とか、だいたいこの3点に集約されると思うが、どれもまったく見当違いな批判だ(このことについては、拙著『どのような教育が「よい」教育か』(講談社)で詳論しました。ご興味のある方に手に取っていただければ幸いです)。


3.正義とは何か

「正義とはある道徳的要件の名称で、これらを全体としてみれば、社会的功利の程度がほかの要件より高く、したがって義務的拘束力もほかの要件よりとびぬけて強いということである。」

 この正義論もまた秀逸だ。

 ミルにとって、正義とは功利の程度によって可変的に決まるのだ。

 これはとても重要な点だ。

 現代思想では、今もなお、正義とはこのようなものだ、とその「内容」を規定しようとする動きがさかんだ。


 そこで、ある考えが超越的な権利を与えられることになる。

 たとえば「弱者を救済する」といった思想が典型的だ。
 
 しかし、こうした思想は無数に乱立する。そしてそれらは互いに対立してしまうのだ。

 ある思想を超越項化するかぎり、それは必ず対立関係を生む。

 だからこそ、正義の公準は「功利」の程度によって決まる、あるいは合意によって決まる、といったミルやルソーの思想は、底の底まで行き当たった思想だろうとわたしは思う。


(苫野一徳)



Copyright(C) 2009 TOMANO Ittoku  All rights reserved.