カント『純粋理性批判』

はじめに

 ロックバークリーヒュームらのイギリス経験論と、スピノザライプニッツらの大陸合理論を、ついに総合して近代哲学のトップに躍り出たカント。

 たたみかけるような論理力は、圧巻というほかない。ところどころ辻褄合わせのような力技がみられるのも、ご愛嬌といったところか。

 カントは考えた。ヒュームの懐疑主義は秀逸だが、しかし結局何でも習慣であって、確かなものはひとつもない、と言ってしまうには、われわれにはあまりに何かを確実だと思う傾向がありすぎる(ヒューム『人性論』のページ参照)。

 スピノザの汎神論は確かに合理的な世界説明だが、しかし世界がすべて神の秩序の通りに存在しているなどと、いったいどんな根拠から言うことができるのか(スピノザ『エチカ』のページ参照)。

 カントの解決法は、コペルニクス的転回といわれている。

 確かにわれわれには、絶対的に確かな物自体を認識することはできない。

 しかし、何かを確実だと思わせる、われわれに内在するある構造があるのではないか。

 これを、感性悟性と呼ぼう。

 この両者がわれわれにはア・プリオリに(経験に先立って)備わっていて、これを通して世界を認識している。

 われわれは「物自体」を問うことはできないが、このわれわれに備わっている感性と悟性のあり方を研究することで、われわれの認識とはどのようなものであり、そして「われわれには何を知りうるか」を、明らかにすることができるはずだ。

 『純粋理性批判』の長い旅は、こうして始まる。

1.感性と悟性

「対象は感性を通して我々に与えられる。そして感性のみが我々に直観を給する。対象は悟性によって考えられ、悟性から概念が生じる。」

 カントによれば、感性とはわれわれが対象を認識する受容作用のことだ。

 そして感性によって対象が与えられると、それがいったいどういうものなのか、悟性によって考えられる。

 たとえば、目の前にグラスがある。このグラスを見ることができるのは、「感性」がわれわれに備わっているからだ。そしてこのグラスを見て、「透明な」「細長い」「筒状の」「水を飲む」ものだ、と判断できるのは、われわれに悟性が備わっているからだ。悟性は、こういう「概念」をつかさどるものである。

  
 2.空間と時間

「空間と時間とが、ア・プリオリな認識の原理である」

 カントによると、感性は空間時間をアプリオリに含んでいる。

 つまり、われわれが感性によって物を受容的に認識できるのは、そもそも空間と時間においてわれわれがものを直観しているからだ、と、いうわけだ。

 われわれは、物体のない空間を表象(イメージ)することはできるが、空間のない物体を表象することはできない。

 同じように、現象のない時間を表象することはできるが、時間のない現象を表象することはできない。

「我々が一切の現実的知覚よりも前に(ア・プリオリに)認識し得るのは、空間および時間だけである。そこでこれらが純粋直観と呼ばれる。」

 空間と時間というものがあるから、われわれは現実を認識できるのだ。だからこれらが最も根源的な直観だ。

 そうカントはいう。

 さて、しかし私の考えでは、これはかなり怪しい主張である。

 確かに空間と時間は、われわれが物を認識するときの基本形式ではある。

 しかしこれはほんとうにアプリオリだろうか?

 むしろ、空間がある、時間がある、という直観は、われわれが抱いている信憑でしかない。

 空間も時間も、確かにわれわれの感性に含まれる最も基本的な形式ではあるだろうが、これらの形式すら、実はわれわれが経験を積んで始めてもつことのできるものというべきではないだろうか。

 ヒューム的にいうと、空間とか時間とかいう観念もまた、習慣によって生み出されたものに過ぎないのではないか。

 
しかしともあれ、先に進もう。


 3.主客一致ではなく、認識の規則を探究しよう

 カントは言う。

「『真理とは認識とその対象との一致である』と前提されている。」

「しかし真理がまさに認識の内容に関するとしたら、かかる認識内容を真であるとするところの標徴は何かと問うのは、まったく不可能であり不合理である。従って真理の十分でしかも同時に普遍的な標徴は示され得ない。」

  つまり、認識と対象との一致を、われわれはどうしたって保証することなどできない、というわけだ。

 目の前のペットボトルが、私が見ているままに絶対に存在しているなどという保証は、どこにもない。(犬が見ているペットボトルと、トンボが見ているペットボトルと、魚が見ているペットボトルとは、おそらく違っている。だから私が見ているペットボトルが絶対そのままに存在しているかどうかは、決してわからない。)

 そこでカントは言う。

「しかし単に形式だけから見た認識について言えば、一般論理学が悟性の普遍的、必然的規則を呈示するものである限り、これらの規則においてこそ真理の標徴は開顕せられる。」

  つまり、主客の一致は決してわからないが、われわれの認識がどのような規則性をもっているかはわかる、というのだ。

 われわれはいったい、どのように物を認識し、判断しているのか。


4.純粋悟性のカテゴリー

 物の認識(受容)は、時間と空間を基底とした感性によってなされるのだった。

 では、この受容されたものを概念化していく判断能力である悟性は、どのような規則によってこの判断を行うのだろうか。

 カントはそれを、以下のようなカテゴリーとして示す。
 
   カテゴリー表

1.分量 — 単一性
     — 数多性
     — 総体性
2.性質 — 実在性
     — 否定性
     — 制限性
3.関係 — 付属性と自存性(実体と付随性)
     — 原因性と依存性(原因と結果)
     — 相互性(能動者と受動者との間の相互作用)
4.様態 — 可能−不可能
     — 現実的存在−非存在
     — 必然性−偶然性

 われわれは、以上4つのカテゴリーにおいて、感性によって与えられたものを判断している。

 そうカントはいう。

 しかしこれもまた、私には少し恣意的であるように思われる。
  
 20世紀、現象学を創始したフッサールもまた、カントから多くを継承しながらも、この点についてはカントを鋭く批判しているフッサール『イデーン』のページ参照)。

 現象学によれば、認識(確信)が成立する条件として、これらのカテゴリーが信憑として生じている、ということはできる。

 たとえば、目の前の物体がマネキンではなく人間だと確信するのは、たとえばその「」感がやわらかいから、とか、その「様態」が動くことができるから、とかいう、条件が整っているからだ。

 しかしだからと言って、この「質」や「様態」についての概念が、そもそもわれわれにはアプリオリに備わっている、などと言うことは、できないはずである。

 これら概念もまた、事後的に確信されたひとつの「確信構造」なのである。

 その意味で、私もまた、カントのカテゴリーはかなり恣意的なものだと考えている。

 しかしこれもまたいいとして、先に進むことにしよう。


5.理性について

 さて、ここでいよいよ、本書の主役である理性が登場する。

「悟性が規則の能力であるのに対して、理性は原理の能力である。悟性の規則を原理のもとに統一する能力である。」

「理性は条件付きの悟性認識に対して無条件なものを見出すにある、そしてこの無条件者をもって悟性の統一が完成される。」

 悟性は、感性によって与えられた対象を、関係様態、において判断するのだった。

 理性は、この規則を、無条件なものにまで統一したいとする能力だとカントは言う。

 それはつまり、こういうことだ。

 たとえば、美しさという「質」があったとする。

 理性は、この美しさの極限まで推論する。そうして、絶対的な「美」とは何か、と、考える。

 あるいは、数という「量」がある。

 理性は、この数の無限大まで推論する。そうして、無限の数とは何か、と考える。

 要するに、理性は悟性の能力をとことんまで無限化しようとする能力のことなのだ。

 ひとことでいえば、無限に推論し続ける能力のことである。

 しかしカントは続けて言う。

「しかしかかる最高原理から生じる原則は、およそ現象に関してはいずれも超越的原則である。」

 つまり、理性が求めるような究極のものなど、現実世界にはありえないものなのだ。


6.アンチノミー

 ここで、有名なアンチノミーの話が始まる。

 アンチノミーとは、二律背反のことをいう。つまり、あっちを立てればこっちが立たず、という状況が生まれてしまうことをいう。

 純粋理性は、その推論の能力という性質上、絶対的究極のものをつかむまで、推論をやめようとしないものだ。

 そこでカントは、次の4つの例を、純粋理性が抱く疑問の最たるものとして挙げる。そしてこの正命題と反対命題のどちらの命題も論理的に「証明」することで、結局これらの問いには決して答えが出ないことを明らかにする。

正命題:世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有する。
反対命題:世界は時間的な始まりをもたないし、空間的にも限界をもたない。

正命題:合成された実体はすべて単純な部分からなっている。
反対命題:いかなる合成物も単純な部分からなるものではない。そのようなものは実在しない。

正命題:現象を説明するためには、自然法則のほかに自由により原因をも想定する必要がある。
反対命題:およそ自由というものは存しない。

正命題:世界には、絶対に必然的な存在者であるような何かが実在する。
反対命題:必然的な存在者は実在しない。

 私は個人的には、カントの「証明」の仕方にはあまり感心しない。かなりむりやりなところがあるようにも思う。

 しかしそれでも、こうした究極原因を問う問い(形而上学的問い)には、決して答えが出ないのだと明らかにしたことは、カントの大きな功績だ。

 ここからカントは、それまでの哲学が問うてきた形而上学的問いを禁じ手とし、続いて、われわれは何を意志しうるのか、という、道徳を考察する道徳哲学という新たな道の可能性を切り開くことになる。

 それが、次の『実践理性批判』に結実することになる。

(苫野一徳)

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