ミルズ『社会学的想像力』

はじめに

C. Wright Mills アカデミズムの反逆児、ミルズ。

 本書のアカデミズム批判は痛烈だ。
 
 個人的にも、よくぞ言ってくれた、と思うところが多い。

 ミルズは社会学者だが、哲学の観点から言っても、重要な思索を展開している。

 社会学的想像力、それは、ミクロな問題とマクロな社会構造との連関を、洞察できる能力のことだ。

 諸個人の問題が、どのように社会構造との関係で生起しているものか。社会科学者はこれを洞察できなければならない。

 現代の問題の本質は、自由理性相対化されてしまった点にある。われわれは皆、社会という巨大システムにとらわれて、もはや自由たりえない。そう思わされてしまう点にある。

 これをどうすれば解決できるのか。

 自由と理性を復権しようとするミルズの思想は、今日の哲学にとってもなお十分意義深い。


1.社会学的想像力の必要性

「人が罠にかけられているという感じをもつのは、自分の意志でしているつもりの生活が、実は個人の力ではいかんともしがたい全体社会の構造そのものに生じる、さまざまの変化によって支配されているからである。」

 ホルクハイマー=アドルノ『啓蒙の弁証法』でもみたように、そして後にフーコーボードリヤールが描き出したように、現代のわれわれは、主体的に生きているつもりでいても、実は社会システムによって規定されている。

 何を「美しい」と思うか、「正義」と思うか、等々は、社会が知らず知らずのうちに私たちに教え込んでいる。

 どんな服が欲しいか、どんな生活を送りたいか、等々も、マスメディアによってイメージを与えられている。

 われわれの価値観や欲望は社会によって作られている。結局われわれは、自由でも主体的でもない。

 先述の現代思想家たちのウェイトは、どちらかと言えばこのような社会批判に向けられている。しかしミルズは言う。

「社会学的想像力は、歴史と生活史とを、また社会のなかでの両者の関係をも、把握することを可能にする。それが社会学的想像力の役割であり、またそれだけの成果をそれは約束する。」

 社会学的想像力とは、諸個人の個人的な問題が、いかに社会構造全体の中において生起しているかを洞察する力のことだ。そしてこの連関を洞察することができれば、われわれはその諸問題を、どのように解決していくことができるか、考えることができるようになる。

 このような能力こそが、今日の社会科学者に求められているものなのだ。

 ミルズはそう主張する。本書の目的は、次のようである。

「本書における私の目標は、現代の文化的課題に対する社会科学の意味を明らかにすることである。私は社会学的想像力の展開の背後に横たわっている努力の性質をはっきりさせたい。それが文化的生活に対し政治的生活に対してもつ意味を指摘し、それをもつためには何が必要であるかを示唆したい。」



2.誇大理論(グランドセオリー)批判

 そこでミルズは、まず現代の社会学の動向を批判する。

 最初のターゲットは、誇大理論(特にパーソンズ)だ。

 ミルズはパーソンズの『社会体系』について、次のように言う。

555頁の『社会体系』をおそらく150頁ほどの、わかりやすい文章に翻訳することができるであろう。」

 そして言う。

「パーソンズのこの著書を二つ三つの文章で要約したならば、『われわれの問題は社会秩序がいかにして可能であるか、ということである。われわれに与えられている答によると、共通に受容されている価値によって、である。』これで全部であろうか。もちろんそうではない。が、これが中心であることは確かである。このやり方はフェアであろうか。どんな本でもこの方式で扱ってよいのであろうか。もちろんである。」

 実に爽快だ。

 私も常々、どんな本もその要点を5行でまとめることができるし、むしろ学者たるもの、そのようにポイントをおさえる能力は不可欠だ、と言っている。とりわけ哲学書を読むときに重要なのは、次の点だ。

1.何が問題とされているのか、2,それをどのような方法で解いたのか、3.答えは何か。

 ともあれミルズは、次のようにパーソンズの誇大理論を批判する。

「誇大理論が成立する基本的な条件は、そのような理論家が観察のレベルまで論理的に下降することができないほど一般的なレベルでの思考を、頭から採用していることにある。」

「実際をいえば、誇大理論のなかでとり上げられると、どんな実質的な問題も、あいまいにしか記述されないようになってしまう。」

「この特殊な誇大理論で『体系的』といわれているのは、実はあらゆる具体的経験的な問題から逃避する方法の別名である。」

 要するに、誇大理論は「そもそも社会はこうなっている」というモデルをどーんと提示するが、そんなものは具体的諸問題に取り組むとき、ほとんど使い物にならないほど抽象的一般的にすぎるのだ。そうミルズは主張するわけだ。



3.抽象的経験主義の批判

 続いてミルズが批判するのは、現代社会学の主流、抽象的経験主義だ。

 今日の社会学者の多くは、社会にとって何の意味があるのかよくわからない、とにかくミクロな問題についてひたすら調査する。

「かれらが推進している専門化は、内容や問題や領域を無視してただ〈方法〉をつかうということだけにもとづいている。」

 社会学は「科学的方法」なるものを使わなければならない。そう彼らは主張する。したがって、あまり壮大なテーマや広い範囲のテーマについては、科学性を担保することが難しいため手を出さない。彼らは、社会的学問的に意義ある目的のために「方法」を使うのではなく、まず「方法」ありきで、そこからテーマを設定するのだ。

「頭から小親模な地域の微視的研究にとりかかるということは、その研究が構造的な重要性をもった問題を解明するのにたしかに有効であるという推論ができないのなら、そこからどんな成果がでてくるにしても愚かしいことではないだろうか。すべての問題をバラバラの諸個人とそのバラバラの個人的生活状況にかんする、統計的であれ何であれ、バラバラの情報を追いまわすバラバラの試みとしか考えない立場をとっている限り、われわれはそのような問題を正しく『翻訳』していることにはならないのである。」



4.社会科学の官僚制化批判

 その結果、学問は官僚制化していくことになる。そうミルズは主張する。

 調査には金がかかる。そのためスポンサーが必要になる。学者たちは、政府や企業に金を出してもらおうと働きかける。そこで政府や企業は、自分たちに都合のよいデータ収集を委託する。

 そもそもミクロな問題ばかり調査研究している社会科学者たちだ。政府や企業の都合のいいミクロなテーマを選ぶことに抵抗はない。

 そして、大規模な調査チームが作られる。研究費を獲得できる親分に群がる、雑兵たちの集まりだ。要するに、学問組織がギルド化していくわけだ。

 これが現代社会科学の主流である。

 こうして、現代の社会科学者は、2種類に分けることができるようになる。

「第一は知能的管理職や調査プロモーターである。〔中略〕巨大な財団は、瑣末な問題について大規模な官僚制的調査が行われることを奨励し、知能的管理人のための職さがしに精を出している。」

「第二は社会科学者というより調査技術者とでもいうべき青年補充要員である。」
「問題を発見するために自己の精神を、どこにでもどんな手段によってでも旅行させ、必要とあれば精神そのものの改造をも敢えて行わせるほどの真剣な好奇心を、私はかれらの間に、かつて認めたことがない。かれらは行動的ではなくて組織順応的、想像力に乏しく気が長い。」


 前者はいわばギルドの親分で、ミルズはこれを、学問的政治屋と呼ぶ。学問の魂など、とうに忘れてしまった権力主義者だ。

「新しい学問的政治屋たちは会社取締役や軍司令官のように威信によって、かれ自身の能力とは別の、しかしかれの声価のなかで混同されている能力手段を獲得するにいたった。」

 こうした政治屋を、ミルズは次のように揶揄している。

「未来に関心をもっているある友人が、そのような人物について最近ごく内輪に語ったところによると、『かれが生きているうちは、かれもあの分野では最も輝かしい男だろうが、死んで二週間もすればもうすっかり忘れられてしまうさ。』かなり酷なようであるがこの発言は、学閥界の政略家たちをいつも悩ましているはずの不安の苦しみをあらわしているといえよう。」

 ミルズが批判したいこと、それは要するに、現代のアカデミシャンたちが、社会の問題を洞察し解決するという、学問の魂を失ってしまったことにあるのだ。



5.社会科学の未来=自由と理性の再興を

 しかしミルズは悲観しない。

「社会科学はたしかに混乱しているかもしれないが、その混乱はなげき悲しむべきものではなく、開拓すべき土壌であるといえよう。」

 さて、現代の問題の本質は、自由理性の概念が、相対化されてしまった点にある。

「(現代の)イデオロギー的標識――それがこの時代を〈近代〉から区別する――は、自由と理性の理念が相対化され、合理性の増大が必ずしも自由の拡大をもたらすものとは考えられない、ということである。」

 人間は自由になるために、自らコントロールできる合理的な社会システムを作ろうと考えた。しかし今日、この合理的なシステムが、かえって人間の自由を奪っている。

 もはや人間は、理性によって自由になることなどできないのではないか。

 これが現代人の切実な問題意識なのだ。


 しかし社会科学者は、この悲観的な問題意識に負けてはならない。ではどうすれば、われわれは自由になれる社会を構想することができるのか。社会科学者は、この問いに理性をもって立ち向かう必要がある。

「社会科学者が社会構造に対して関心をもつのは、未来が構造的に決定されているというような考え方によるのではない。われわれが人間の意志決定における構造的限界を探求するのは、歴史づくりのなかで明確な決定の果たす役割を拡大させようとして、何を構造的に変化させることができ、また変化せしめねばならないかを知るために、効果的な干渉点を発見しようとするからである。」

 今日もなお、自由と理性をただただ相対化する社会批判思想は、まだその命脈を保っている。そろそろいい加減、理性によって自由になれる社会をどう構想することができるか、という方向に、問いを変更すべきだと私は思う。

 その意味で、本書(1959年出版)は今日なお重要な意味をもつものと言えるだろう。

(苫野一徳)



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