ミル『自由論』

はじめに

 父親のジェームズ・ミルから英才教育をほどこされたミルは、幼い頃から神童として知られていた。

 子どもの頃、同年代の少年たちと遊ぶことすら禁じられていたというから、まかり間違えば大変な精神的苦労を抱える大人に成長していたかもしれないが、彼の著作を読む限り、その思想は実にバランスがとれている。

 本書は、明治日本においても大きな影響を与えた社会思想の金字塔。

 そして今日なお揺るぎなき、近代「自由」論の1つの最高峰といっていいだろう。


1.本書の目的

「自由」論といえば、古今東西、自然の摂理神の摂理があるにもかかわらず、人間は本当に「自由」であるなどといえるのか、という議論が続けられてきた。

 ミルは冒頭で、本書ではこうした議論にはかかずらうことなく、あくまでも社会的自由だけをテーマとすると述べる。


「この論文の主題は、哲学的必然という誤った名前を冠せられている学説に実に不幸にも対立させられているところの、いわゆる意志の自由ではなくて、市民的、または社会的自由である。換言すれば、社会が個人に対して正当に行使し得る権力の本質と諸限界とである。」

 ちなみに、自然や神の摂理の中にあって人間は本当に「自由」なのか、というテーマについては、すでにカントが『純粋理性批判』の第3アンチノミーにおいて、この問いに人間理性は決して答えることができないということを“証明”している。それゆえ、人間はこうした問いにかかずらうべきではないのだと。(カント『純粋理性批判』のページ参照)

 ミルもおそらくこのカントの議論を踏まえた上で、「摂理」「必然」といったものに関する議論を、「誤った」議論といったのだろう。


2.多数者の暴虐

 ミルが本書を書いた大きな動機、それは当時のヨーロッパにおいて、「多数者の暴虐」の問題が現れ始めていたからだ。

 かつての社会思想は、圧政者からの自由が問題とされていた。しかし今日、われわれの社会は多数者の専制という問題を抱えている。

「今や政治的問題を考える場合は、「多数者の暴虐」は、一般に、社会の警戒しなくてはならない害悪の一つとして数えられるに至っている。」

 多数者が少数者に過度に干渉することで、自由が奪われる社会。わたしたちが今警戒しなければならないのは、そのような社会なのである。ミルはそう主張する。

 そこで、個人的自由と社会的統制のバランスを見極めなければならないが、この問題はまだほとんど手つかずの状態にあるとミルはいう。

「その限界をどこに置くべきであるか――個人の独立と社会による統制との間の適切な調整をどのように行なうべきであるか――という実際問題は、ほとんど何もかもこれからやらなければならない未解決の問題のままになっている。」

 そこでまず、基本的には、このバランスは法律と世論によって保たれるべきである。

「第一には法律によって、また法律の施行に適しない多数の問題については世論によって、若干の行為の規則が課せられなくてはならい。」


3.干渉の正当化原理

 個人の「自由」に対して、他者や社会が干渉してもよい場合はどのような場合だろうか。この問いに対して、ミルは次の2つの原理を挙げる。

「その原理とは、人類がその成員のいずれか一人の行動の自由に、個人的にせよ集団的にせよ、干渉することが、むしろ正当な根拠をもっとされる唯一の目的は、自己防衛(self-protection)であるというにある。また、文明社会のどの成員に対してにせよ、彼の意志に反して権力を行使しても正当とされるための唯一の目的は、他の成員に及ぶ害の防止にあるというにある。」

 「自己防衛」原理と、「他者への危害防止」原理。これが、個人的自由への干渉を正当化する原理である。そうミルは主張する。「危害原理」(harm principle)として、よく知られたものだ。

 ただしこれには例外がある。

この所説を、諸々の能力の成熟している人々にだけ適用するつもりであることは、恐らくいう必要はない。」

 子どもや、さらにいえば未開人においても、この原理は適用されないとミルはいう。こうした人びとに対しては、「危害原理」を超えて干渉することが正当化される。

 子どもは特に保護と教育という点において、そして未開人には、専制政治という手段においても。

「もしもその目的が未開人の改善にあり、またその手段が現実にこの目的を達成することによって正当化されるならば、専制政治は未開人をとり扱うための正当な統治方法である。

 この「未開人」のくだりは、現代においては非難を浴びかねない記述ではあるが、実際もしもあまりにひどい部族抗争や内乱が続いている場合であれば、外部からの一定の干渉も正当化しうるということはできるだろう。


4.思想および言論の自由の根拠

 続いてミルは、「自由」の中でも特に重要な思想および言論の自由の根拠を明らかにする。

 ミルによれば、その根拠は次の4つである。

「第一に、或る意見に沈黙を強いるとしても、その意見は、万が一にも真理であるかも知れないのである。このことを認めないのは、われわれ自身の絶対無謬性を仮定することである。
 第二に、沈黙させられた意見が誤謬であるとしても、それは真理の一部分を包含しているかも知れないし、通常は、包含していることがしばしばある。そして、いかなる問題についても、一般的または支配的な意見が完全な真理であることは稀れであるか、絶無であるのであるから、真理の残りの部分の補充されうる機会は、相反する意見の衝突することによってのみ与えられるのである。
 第三に、一般に認められている意見が単に真理であるというに止まらず、完全なる真理であるという場合においですら、それに対して活潑な真撃な抗議を提出することが許され、また実際に提出されるということがないならば、その意見を受容する人々の大多数は、偏見を抱く仕方でそれを抱き、それの合理的根拠を理解しまたは実感するということはほとんどないであろう。だがそれだけでなく、さらに第四に、その教説そのものの意味が失われまたは弱められて、その意見が人の性格と行為とに与える生き生きとした影響が抜きとられる、という懼れがあるである。」

 要するに、①抑圧される思想が絶対に間違っているかどうかは分からない、②もし一定正しかった場合、その思想を取り込むことは人間をより豊かにする、③たとえ間違っていたとしても、それは検証されなければならない、④マジョリティの意見が本当に正しいのであれば、その検証を通してそれはより強化されることになる、というわけだ。

 無謬主義の否定。これが、思想・言論の自由の最大の根拠なのである。


5.個性について

 続いてミルは、人間には己の個性を最大限発揮し伸長する自由があることを論じる。

 ここで参照され、以下何度も言及されるのが、ウィルヘルム・フォン・フンボルトの次の思想だ。

「人間の目的、すなわち、永遠または不変なる理性の命令の指示したものであって曖昧なまた移ろいやすい欲望の示唆したものではないところの、真正なる目的は、人間の諸能力を最高度にまた最も調和的に発展せしめて、完全にして矛盾なき一つの全体たらしめることにある。」

 フンボルトの言葉を借りて、ミルはいう。

「この目的のためには、二つの条件、すなわち「自由と状況の多様性と」が必要である。」


 と。

 しかし今日の社会状況はどうか。

「現代においては、個人は群衆の中に埋没されてしまっている。政治においては、今や世論が世を支配している、などと述べることは、ほとんど陳腐な言葉となっている。」

 個人がその個性を伸ばす自由を保障するどころか、現代社会は個々人を鋳型に嵌めその個性を抹殺しているではないか。

「教育の拡張が行なわれるたびに、同化の作用は促進される。〔中略〕交通手段の改良もまた、同化作用を促進する。〔中略〕商業と製造業との増大もこれを促進する。〔中略〕これらすべてに較べても、それ以上に人類の間の一般的類似性をもたらす強力な媒体となっているのは、イギリスおよびその他の自由諸国において、国家における世論の優位が、完全に確立されているということである。かつては、さまざまな優れた社会的地位に坐って守られていた人々は、そのような地位のおかげで大衆の意見を無視することができたのであるが、そのような地位は次第に均等化せられてゆくし、また、公衆が何らかの意志をもっていることが明確となった場合に、その意図に抵抗しようとする観念そのものが、実際政治家の念頭からますます消え失せてゆく。」


6.現実への適用

 最後にミルは、先に挙げた、社会による個人への干渉の正当化原理(危害原理)を、実際の社会問題に適用する。

 わたしたちは、あらゆる場面において、何らかの意味で他者に「危害」を加えているといえなくもない。

「同業者の氾潰している職業に成功する者や、競争試験に勝を制する者、その他、二人の人間が共に欲求している目的物をめぐってのコンテストで、相手を抜いて選ばれる者は、だれにしても、すべて他人に損失を与え、他人の努力を空費させ、また他人を失望させることによって、利益をとり入れるのである。」

 が、わたしたちは、こうした場合を取り立てて「危害」とは呼ばない。なぜか。

「社会は、失意の競争者に対して、この種の悩みを免れうるような法律上もしくは道徳上の権利を絶対に認めず、それを許すことは社会全体の利益に反すると思われるような成功の手段――すなわち詐欺、違約、および暴力――が用いられたときにのみ、干渉を要請されると感じるのである。

 わたしなりにいうと、それがフェアなルールゲームにのっとって行われた行為である限り、そのゲームの結果勝敗や格差がついたとしても、それを「不当」ということはできない、ということになる。(これは逆にいえば、ルールがフェアなものではない場合、このルールを変更する権利を人びとはもっているということを意味する。)

 ほかにもミルは、酩酊は一般的には個人の自由の領域だが、そのことで他者に危害を加えた場合は罰せられるべきである、とか、そうした前科を持った者の酩酊は取り締まられるべきである、といったことや、怠惰も同様個人の自由だが、それが育児放棄などにつながった場合は取り締まられるべきである、といったことを述べる。

 あるいは、「己を奴隷として売り飛ばすこと」の禁止についてもミルは述べている。

自由の原理は、自由を棄てることもまた自由でなくてはならぬ、というようなことを要求しえない。

 その理由をミルははっきりとは述べていないが、わたしならそれを、本ブログでもしばしばいっている、「自由の相互承認」の原理から根拠づける。

 「自由」を求めるわたしたちの共存原理が「自由の相互承認」のほかにないのだとすれば、どれだけ自らの「自由」な意志で自らの自由を捨てるといったとしても、それを社会が認めないことは正当化されるのだ。認めてしまえば、だれかによるだれかの「自由」の抑圧をも認めてしまうことになるからだ。


7.教育

 最後に、ミルは教育について次のようにいう。

「もしも親がこの義務を果たさないならば、国家は、できるならその親の費用負担で、この義務が果たされるように取りはからうべきであるが、このこともまた、まだ一般には承認されていないのである。国家は、全国民に対して教育を強制すべき義務をもっているということが、一度承認されるならば、国家は何を教うべきであるか、また、いかに教うべきであるか、ということについての困難はなくなるであろう。」

 これは、親の教育義務と、その内容の自由を主張したものだ。

「政府は、親たちの欲する場所と方法で教育を与えることを親たちに一任し、政府自身は、貧困な児童の授業料の納付を補助し、学費の支弁者をもたない児童の学費全額を支弁することで満足することができるであろう。

 危害原理に基づく限り、親は、他者と子どもに危害を加えない限り、自らの思うままに子どもの教育をすることができる。しかし教育を行うことそれ自体は、子どもの自由を考えた場合義務である。

 この親の教育義務の達成を保障するため、ミルは次のような試験制度を提案する。

「このような法律を実施する手段は、すべての児童に渉って且つ幼年時代に始められるところの、公の試験のほかにはないであろう。一定の年齢を定めてあらゆる児童を試験し、彼(または彼女)が読む力をもっているかどうかを確かめることができるであろう。もしも或る児童が読む力をもっていないと判ったならば、その父親は、何か充分な弁解の理由をもっていない限り、適度の罰金に処せられてよいし、この罰金は、必要な場合には彼の労働で代納せしめてもよいであろう。そしてその児童は、父親の費用で学校に通わせられることになるであろう。爾後、毎年一回この試験が改めて行なわれ、問題の範囲は徐々に拡張されて、その結果、一定の最小限度の常識を全国民に獲得させ、さらに進んでこれを永く記憶させるということが、事実上強制的なものとならなくてはならない。」

 そしてその内容は、「知育」に限定するべきである。

「国家がこれらの制度を通じて世論に対して不当の影響を及ぼすことを阻止するためには、試験を通過するために必要な知識は(言葉とその使用法のような単に手段的な知識以上のものについていえば)、高級の試験においですら、もっぱら諸々の事実と実証的科学とのみに限られなくてはならない。」

 ミルの主張は、個別論点については、今日の時代状況においては議論の余地あるものも多い。しかし「危害原理」に関しは、原理としては、今なお最も説得的なものといっていいだろう。



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