ハイデガー『世界像の時代』

はじめに

 後期ハイデガーの作品。

 『存在と時間』のページでも書いたように、いわゆる転回(ケーレ)後の後期ハイデガーは、存在を存在それ自体として問う哲学へと、ますます思索を進めていく。 

 本書は、ハイデガーが近代をどう捉え、そしてそこからどう脱け出すべきかを示唆した作品。

 わたしは個人的には後期ハイデガーの思想に批判的だが(『技術への問い』などのページ参照)、本書における近代や学問の分析は、やはり見事というほかない。


1.主体としての人間の誕生

「人間が、従来の束縛から自己を解放することが、決定的なのではなくて、人間がズプエクトSubjektとなることによって、人間の本質一般が変化することが、決定的なのです。」

 近代の本質的な現象として、ハイデガーは近代学問の登場について詳しく分析する。

 その特徴は、存在するものを「対象化」することだ。対象化し、認識し、その規則と法則を明らかにする。

 つまり近代の学問は、人間が主体となって、客観としての存在を自分の「前に立てる」vorstellen)営みなのだ。そしてそれは、近代人一般の、存在に対する態度でもある。



2.世界像の時代

「世界像とは、本質的に解すれば、それゆえ、世界についてのひとつの像を意味するのでなくて、世界が像として捉えられていることをいうのです。存在するものはいまや、全体として、そのように受けとられているので、それがフォアシュテレント(まえに置き)、ヘルシュテレント(こちらに置く)、表象的-生産的人間によって配置されているかぎり、存在するものは、やっとまたそのかぎり、存在的であるのです。存在するものが世界像となるばあいに、存在するものについて全体として、本質的な決定がおこなわれるのです。存在するものの存在は、存在するものがフォアゲシュテルトハイト(表象されてあること)において、探求され且つ見いだされるのです。」

 中世において、世界は創造物として捉えられていた。人間も同様だ。

 しかし近代、世界観は大きく変わった。それは、人間によって対象的に捉えられたものとしての、つまり像としての世界というイメージだ。そしてわれわれは、存在を客観的に観察するだけでなく、機械技術の進歩によって、これを変容する能力まで得た。そうハイデガーは指摘する。

「人間の能力の領域を、すべて存在するものを支配するための基準と実行の場処として占拠する、あのような人間の在り方が始まるのです。」


3.世界観相互の対立、そして存在そのものへ

 さて、しかしこのような世界像の時代は、それぞれの世界像の対立を、不可避的に生むことになる。

「このような地位が、世界観として確保され、組織づけられ、表現されるので、存在するものに対する近代的な関係は、その展開の極致においては、世界観相互の対決となって現われてきます。それも任意の世界観相互の対決というのではなくて、すでに尖鋭化されている人間の根本的地位を、さらに極点まで引張ってゆくような、そのような世界観相互の対決となって現われるのです。」

 近代は、これこそが正しい「世界像」「世界観」だ、といって争い合う時代だったといえる。それは今も、大して変わらない。

 そこで……というわけなのかどうかは分からないが、ハイデガーは本書を、次のような言葉で締めくくる。

「人間は、あの計量しえないものを、ただ真のベジンヌング(反省)の力からする創造的なフラーゲン(問うこと)とゲシュタルテン(形成すること)においてのみ、知るでしょう。すなわちその真理へと守るでしょう。この反省の力は、将来の人間をあのあいだに移します。そのあいだにおいて、人間は、存在に属し、しかも存在するもののなかでよそものであるのです。」

 人間は決して、存在するものを対象化できるような偉い存在ではない。むしろわれわれは、存在の中で、謙虚に存在の「声」に耳を傾けよ。そうすればわれわれは、われわれ自身の「本来性」を知ることができるはずだ。

 後期ハイデガーの中心モチーフが、本書でもうっすらと語られている。

 環境問題などが大きく取りざたされる今日、こうしたハイデガーの「主張」は、改めて注目されるようになっている。

 しかし、深淵なる「存在」の中において謙虚に安寧を得よ、と言わんばかりのこうした言い方は、なんだか悟りを開いたようでカッコよくはあるが、結局何も語っていないに等しいようにわたしは思う。

 すべての人が、「存在」の深淵さをただ受け入れる、そんな「悟り」の境地に入れるわけではない。私たちは、どうしたって「存在」を対象化し、これを人間の都合のいいように改変しようとするし、またせざるを得ない存在だ。

 その現実をしっかりと自覚した上で、それぞれの存在者との「よりよい」関係を模索すること。そんな風に、私たちは「哲学する」必要があるのではないか。

 わたしはそう思う。

(苫野一徳)



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