デカルト『情念論』

はじめに

 『省察』において身体精神の峻別を論じたデカルトは、しかしその後、この両者が、どのように相互に作用しあうかを論じる必要を感じるに至る。

 その成果が本書である。キーワードは、身体と精神の、いわば中間項としての「情念」だ。

 「情念」とは、passionのこと。語源的には精神の受動を意味する。情念とは、いわば「惹き起こされる」ものなのだ。

 何によって「惹き起こされる」のか?それは身体によってである。そうデカルトは言う。

 デカルトの身体論は、現代からみればかなりメチャクチャだ。神経の中を動物精気なるものが通っていて、この何らかの動きによって、さまざまな情念を感じる、と彼は言う。

 今ではこの学説(?)をまともに取り合う必要はないだろう。しかし続いて彼が展開するさまざまな情念についての洞察は、今も注目に値する。

 われわれはさまざまな情念に悩まされたり鼓舞されたりするものだ。これをどのように活用することで、より豊かな生を生きられるか。

 デカルトの最大の関心は、そこにある。そしてその洞察の数々は、さすが近代哲学の父、天才の名にふさわしい、と私は思う。


1.心身二元論

 まずは、デカルトの基本的な心身二元論についてみておこう。

 彼は言う。身体とは自動機械である。

「わたしたちが意志の関与なしに行うすべての運動(呼吸、歩行、食、その他すべてわたしたちが動物と共通の活動をする多くの場合のような)は、ただ、肢体の構造と精気の流れ、つまり、心臓の熱によって刺激された精気が脳、神経、筋肉のなかを自然にたどる流れ、だけに依存する。それは時計の運動が、ただバネの力と歯車の形だけによって生じるのと同様である。」

 それに対して、精神は「思考」である。

「わたしたちのうちには、わたしたちの思考以外に、精神に帰すべきものは何も残らない。その思考には主として二種がある。第一は精神の能動、第二は精神の受動である。わたしが精神の能動とよぶのは、意志のすべてである。〔中略〕これに対して、わたしたちのうちにあるあらゆる種類の知覚ないし認識は、一般に精神の受動とよべる。」

 そしてデカルトは、この受動的な知覚を「情念」と呼ぶ。


 要するに、意志能動的精神情念が、受動的精神なのだ。





2.情念とは何か


 したがって、情念はさしあたり次のように定義されることになる。

「情念を一般的に次のように定義できると思われる。すなわち、精神の知覚、感覚、情動であり、それらは、特に精神に関係づけられ、そして精気の何らかの運動によって引き起こされ、維持され、強められる。」

 さて、この精神の受動たる情念を、われわれは中々コントロールすることができない。

 それはなぜか。デカルトは言う。

「情念はほぼすべて、心臓のうちに、したがってまた血液全体と精気のうちに、なんらかの興奮の生起をともなっており、そのために、その興奮がやむまで情念はわたしたちの思考に現前しつづける。」

 つまり、情念は身体条件に大きく影響されてしまうのだ。だから、意志の力だけでは中々御しがたい。

 そこでデカルトは言う。意志の強さとは、この情念をコントロールする力のことなのだ、と。

「わたしが意志固有の武器とよぶものは、意志がそれに従ってみずからの生の活動を導こうと決意した、善悪の認識についての堅固な決然たる判断である。そして最も弱い精神とは、意志が一定の判断に従おうと決意せず、たえずその場の情念に引きずられたままになる精神である。」

 この意志の力を鍛えることは可能だ、とデカルトは言う。そのために、本書ではひとまず、われわれはどのような情念を持っているかを検討しようと言う。いわば、敵を知ることで敵との戦い方を考えてやろうじゃないか、というわけだ。


3.6つの基本情念

 デカルトによると、基本情念は6つだけである。

「単純で基本的な情念は、驚き、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみの六つだけであり、他のすべての情念は、これら六つの情念のいくつかの複合、あるいは種である。」

 一番単純な、まさに受動的情念は驚き。ここから、その対象への好き嫌い(愛憎)が生まれ、好きなものを欲望し、嫌いなものを嫌悪する(欲望)。そうすると、欲望を叶えられた喜びと、その逆としての悲しみが起こる。というわけだ。

 かなり恣意的な気もするが、ひとまずOKとしよう(笑)。

 さて、デカルトは続けて、これらさまざまな情念がいったいどういうものであるか、実に深い洞察を繰り広げていく。いくつか拾い上げてみたい。

 たとえばについて、彼はこんなことを言う。

「愛の対象を自分以下に評価するとき、その対象にはたんなる愛着を持つだけだ。対象を自分と同等に評価するとき、それは友愛とよばれる。対象を自分以上に評価するとき、ひとの持つ情念は献身とよべる。」

 あるいは、不快(嫌悪)については、こんなことを言う。

 善への愛と、悪への憎悪は、まあ悪くない情念である。人は理性的に、それを判断しているからだ。しかし快不快の場合は、たぶんに感性的なものである。それゆえ間違うことがしばしばだ。しかもこれはまた、特に強い情念として私たちの判断を鈍らせる。だから特に、何かへの快感情や嫌悪感には、注意せよ。

 中々の洞察だろうと私は思う。


4.情念をコントロールする

 そうしてデカルトは、次のように言って本書を締め括る。

「血液がそのように激動するのを感じたときは、想像に現れるものはすべて、精神を欺く傾向があ〔中略〕ることに注意して、これを想起すべきことである。〔中略〕即座に判断をくだすのを差し控え、時間と静止によって血液中の動揺が完全に鎮められるまで他のことを考えて気を紛らわさねばならない。」

 理性の人デカルトは、どこまでも、われわれが情念に支配されることで、自らの生や他者との関係をスポイルしてしまうことを、厳しく戒めたかったのに違いない。あまりに理性的、と、おもしろみを感じない人もいるかも知れないが、しかしそうしてどこまでも冷静に考え抜いた近代哲学の父デカルトが、私は好きだ。

「知恵の主要な有用性は、次のことにある。すなわち、みずからを情念の主人となして、情念を巧みに操縦することを教え、かくして、情念の引き起こす悪を十分耐えやすいものにし、さらには、それらすべてから喜びを引き出すようにするのである。」

(苫野一徳)



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