デカルト『方法序説』

はじめに

 デカルトは、近代哲学の父と称されると同時に、今日疑いの目を向けられている近代的理性」の称揚者として、あるいは心身二元論の元凶として、激しく批判されてもいる。

 しかし私は、デカルトの誠実に哲学しようという姿がとても好きだし、それ以上に、彼はやはり近代哲学の父と称されるにふさわしい、極めて原理的な哲学のブレイクスルーをもたらした人だと考えている。

 本書からは、「この世に確かなものなどないのだ」とニリヒスティックに言ってのける人たちに対して、「そうは言っても、われわれは何らかの仕方で理解しあってるじゃないか、その理由を問うてみようじゃないか」と、真摯に語りかけてくる彼の声が聞こえてくるようだ。そしてその彼の洞察、また哲学に対する姿勢は、ソクラテス−プラトンに並ぶ、哲学の第2の始まりであったと私は思う。

 デカルトは世界中を旅して回って、自分の価値観が他の文化圏ではまったく通用しないことを知った。

 またこの時代は、たとえば宗教改革を通したカトリックプロテスタントの対立などを通して、確かなものなんて実はどこにもないんじゃないかという、懐疑主義が蔓延していた時でもあった。

 そんな深刻な信念対立や懐疑主義全盛の頃において、もう一度、「誰もが確かにそうだと納得せざるをえない」、そんな力強い考え方を打ち立てよう。デカルトはそう考えた。

 そんな彼の試みが、その後の哲学の基礎となった。まさに近代哲学の父なのである。


1.デカルトの学問的態度

「私はこの序説の中で、私が得たものを示したいと思う。誰にでもそれを批判してもらえるために、また、そこから新たな知見を得るためにも。」

 デカルトはとにかく真摯で誠実である。自分の得た考えを決して絶対化せず、それを常に公に検証できるよう示そうとする。


 学を志す者が、決して忘れてはならない学問姿勢だと思う。


2.哲学の第一原理

「私は考える、それ故に私は有る。これが哲学の第一原理である。」

 先述したように、当時の思想界は非常に多くの懐疑主義者たちで溢れていた。この世に確かなものなんてない……こうした思想は、やがては人々の生きる意志さえも奪い去っていく。
 
 しかしほんとうにそうか?デカルトは考えた。そして言う。

 昨今の懐疑主義者たちの懐疑など、まだまだ中途半端なものである。真に懐疑主義たろうとするなら、徹底して一切を疑ってかからなければならない。

 そうしてデカルトは、ありとあらゆるものを徹底的に疑っていく。

 まず、感覚は私たちを欺くことがあるから確かではない。

 幾何学の事柄も、時折背理に陥ることがある。

 そもそも、この現実だと思っている今が、もしかしたらかも知れないということを否定することすら、決してできない。

 これがデカルト的懐疑である。こうして彼は、懐疑主義者たちより徹底して、まず一切を疑い抜いていく。

 しかしその懐疑の果てに、彼はたった1つ疑いえないものを発見した。

 今ここですべてを疑っている、この「私」がそうである。

 我思う、ゆえに我あり。「私(コギト)」はこうして、思考の疑い得ない始発点として見出されることになったのだ。

 この原理が画期的だったのは、まず、徹底的な懐疑主義者といえども、すべてを相対化することなどできないということを明らかにした点にある。

 また、哲学の課題は、世界はいったいどのように存在しているか、ではなく、むしろ決して疑いえない「私」が、いったいどのように世界を認識しているのかを問うことだ、と、問いの問い方を根本的に変えてしまったという点にある。

 この問いの立て方を受け継ぎ、200年後、フッサールがこの問いに根本的な「答え」を与えることになる(フッサール『デカルト的省察』のページ等参照)。

 哲学の知見は、時を超え脈々と受け継がれ、そして確実に発展しているのだ。

(苫野一徳)

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