空海『秘蔵宝鑰』


はじめに

 仏教には教相判釈というものがあり、祖師は宗派を開くにあたって、他の教理を批判的に整理吟味するということをするらしい。

 本書は、人間の心の境位(住心)を十段階に分け、空海の真言密教を最高の第十住心とし、それ以外(の仏教の教え)に対する優位を論じたもの。

 その第十住心「秘密荘厳心」の本質は、宇宙の一切がつながり合っているという真理を知った上で、これと合一する境位、とでも言えるだろうか。

 私は空海のこの「即身成仏」の思想がとても好きで、一時期ずいぶんと入れ込んだ。今でも好きである。「秘密荘厳心」という最高境位に至るまでの過程が、それ以前の境位を否定するのではなく、包み込んだ上で乗り越えられていく。そうした叙述の仕方も、空海の度量の大きさを思わせとても心地がいい。

 哲学に親しんだものから見れば、それはヘーゲル『精神現象学』における、精神の弁証法的な進みゆき(成長)に共通するものがある(ヘーゲル『精神現象学』のページ参照)。

 しかしその論理展開は、私の考えではヘーゲルに比べればずいぶん恣意的だ。

 たとえば本書には「憂国公子と玄関法師との問答」という箇所があるが、憂国公子の儒教的な立場からの質問に答える玄関法師の弁には、少々詭弁の向きがある。

 なぜ、儒教などの典籍ではなく仏典だけが尊いのか、という憂国公子に対して、玄関法師は、それは仏典こそが真理であるからだと説く。

 しかしこれは、残念ながら何の説明にもなっていないと言わざるを得ない。なぜ真理なのかを明らかにするのではなく、真理は真理なのだとただ言っているだけだからだ。

 そこでさらに疑ってかかる憂国公子に対して、玄関法師は、薬の効能を信じれば病が治るように、仏の教えも信じなければならないと説く。

 これもまた、真理は真理なのだからそれを信じよと、ただ言っているだけである。

 「信じる」ことが宗教の本質であるから、これは当然の論法と言えば当然の論法だ。しかし、それは「信じるか信じないか」の問題だから、その意味で、空海の真言密教こそが最高であるかどうかも、結局は信じるか信じないかの問題になってしまうだけである。宗教論争・宗派論争は、結局のところ永遠に決着がつかないのだ。

 しかしその上で、私は空海の、一切を包み込んでしまう度量の大きな「世界観」に心惹かれる。

 それぞれの宗教には、それぞれの「世界観」がある。それは、世界の真理がどうなっているかを、人間の推論能力を最大限に活かして描かれるものである。

 そうした推論の最も洗練された形を、私たちはいくつか持っている。キリスト教における一神論や、ウパニシャッドなどに代表される汎神論的一元論(梵我一如の思想)などが、その最たるものと言えるだろう。空海の密教思想もまた、そうした洗練された推論の一つの賜物である。

 哲学の観点からすれば、宗教の「世界観」はどれも決して証明することのできない、文字通り「世界の一つの観方」である。それゆえに、どれが正しい「世界観」かをめぐって争っても、決着をつけることは決してできない。

 プラグマティズムの哲学者、ウィリアム・ジェイムズは、人がどのような宗教を必要とするかは、多分にその人の気質によっていると言った(ジェイムズ『宗教的経験の諸相』のページ参照)。なるほど、言い得て妙だ。

 しかし、そのことをこうして述べた上でなお、私は空海の世界観が「好き」である。私にとって空海の思想は、哲学原理を鍛えるための足場ではなく、味わうべき言わば一つの芸術作品なのである。


0.十住心体系の詩句

 空海は本書において、低次元から高次元の精神世界へと発展していく心のあり方(住心)を、十段階に分けて論じている。

 そのそれぞれの住心は、まず次のような詩句によって表現されている(宮坂宥勝訳)。


第一住心 異生羝羊心(いしょうていようしん)
無知な者は迷って、わが迷いをさとっていない。雄羊のように、ただ性と食とのことを思いつづけるだけである。

第二住心 愚童持斎心(ぐどうじさいしん)
他の縁によって、たちまちに節食を思う。他の者に与える心が芽ばえるのは、穀物が播かれて発芽するようなものである。

第三住心 嬰童無畏心(ようどうむいしん)
天上の世界に生まれて、しばらく復活することができる。それはおさな児や子牛が母にしたがうようなもので、一時の安らぎにすぎない。

第四住心 唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
ただ物のみが実在することを知って、個体存在の実在を否定する。教えを聞いてさとる者の説は、すべてこのようなものである。

第五住心 抜業因種心(ばつごういんじゅしん)
一切は因縁よりなることを体得して、無知のもとをとりのぞく。このようにして迷いの世界を除いて、ただひとり、さとりの世界を得る。

第六住心 他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
一切衆生に対して計らいない愛の心を起こすことによって、大なる慈愛がはじめて生ずる。すべての物を幻影と観じて、ただ心のはたらきのみが実在であるとする。

第七住心 覚心不生心(かくしんふしょうしん)
あらゆる現象の実在を否定することによって実在に対する迷妄を断ち切り、ひたすら空を観ずれば、心は静まって何らの相なく安楽である。

第八住心 一道無為心(いちどうむいしん)
現象はわけへだてなく清浄であって、認識における主観も客観もともに合一している。そのような心の本性を知るものを称して、仏(報身としての大日如来)というのである。

第九住心 極無自性心(ごくむじしょうしん)
水にはそれ自体の定まった性はない。風にあって波が立つだけである。さとりの世界はこの段階が究極ではないという戒めによって、さらに進む。

第十住心 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)
密教以外の一般仏教は塵を払うだけで、真言密教は庫の扉を開く。そこで庫の中の宝はたちまちに現われて、あらゆる価値が実現されるのである。



1.異生羝羊心

 以下、それぞれの住心について、空海は解説を加えていく。

 まず「異生羝羊心」とは何か。空海は言う。

「これは世のつねの者がはなはだしく無知の酒に酔って善悪の見さかいがつかず、愚かな者が暗く無知で、因果の理法を信じない心に名づけたものである。世のつねの者はさまざまな行為をなして、種々なる結果をもたらし、そしてその報いとして生まれた姿もさまざまであるから、これを『異生』と名づける。愚かで無知なさまは、かの雄羊がおとって力弱いのにひとしい。だから、『羝羊』をたとえとする。」



2.愚童持斎心

 続いて「愚童持斎心」とは何か。空海は言う。

「人間はいつまでも一般の動物と同じ状態にあるわけではない。人間存在の自覚の第一歩は樹木の発芽と同じであって時が来れば善心が芽ばえる。」(宮坂要約)



3.嬰童無畏心

 第三住心「嬰童無畏心」は、次のように解説される。

「『嬰童無畏心』とは、非仏教者が人間の世界をきらい、世のつねの者が天上界をよろこぶ心である。」
「わずかばかりの悩みをのがれるから『無畏』すなわち安らぎという。しかし、まだほんとうのさとりの楽しみをえないから、『嬰童』すなわち子どもである。」



4.唯蘊無我心

 第四住心「唯蘊無我心」の解説は、次のようである。

「人間の存在は空虚であるとする精神続一に入って、実体的自我は幻や陽炎のようなものだと知り、無生智や尽智をえるから、煩悩によって引き起こされる未来の生を断つ。」
「心身が完全に滅びるのが、さとりだとする。
 声聞乗の教えの要旨はこのようなものである。この教えによると、存在要素は実在するから、『唯蘊』である。個体存在の実在を否定するから、『無我』である。あるものを選んで堅く保持するから『唯』という。」

 空海によれば、この段階に至って初めて、仏教的思想の芽生えが起こる。

 そして興味深いことに、空海は本書において、『十住心論』にはない国家論をここで展開している。

 現代語訳者の宮坂宥勝氏は、空海がここで国家論を展開した理由として、次の2つの理由を挙げている。

 1つは、淳和帝に撰進されたこの著作は、それゆえ、密教の立場から国家論を帝に披露する意図があったという理由。

 いま1つは、第四住心がいわば世間と出世間の結接点にあるところから、仏法を視点とした国家論という世俗的な問題を取りあげたという理由である。

 いずれにせよ、ここで展開されている空海の国家論はきわめて興味深い。

「そもそも国家を経営し、役職を設け、君主をいただいて人民を治めるゆえんはどこにあるのでしょうか。それはもと、天下を支配して君主にこれをささげ、国内をたいらげて補佐の臣にこれを給与しようとするためではありません。まさしく天下の父母とともに万人の極めて苦痛な境遇を救わんと考えてのことであります。」

 国家は、君主のものでも役人のものでもなく、すべての人民の境遇を救うためにある。

 平安の当時、これはきわめてラディカルな思想だったのではないか。



5.抜業因種心

 続く第五住心「抜業因種心」は、次のように語られる。

「『抜業因種心』とは縁覚乗のさとるところであり、一部の縁覚の実践するところである。十二因縁を観じ、地・水・火・風の四つの粗大な原質、または存在一般などの五つの存在要素よりなる生死の世界をいとう。花が散り葉が落ちるのをみて、生・住・異・滅の四つの相をもつ世の無常をさとり、この山林や村落に住して無言の精神統一をする。これによって業煩悩の根株を引抜き、これによって(十二因縁を生ずる)根源的無知の可能力を断つ。」

 空海によれば、これはいわゆる小乗仏教の境位である。



6.他縁大乗心

 第六住心「他縁大乗心」から、大乗仏教の位に入ると空海は言う。

「この全世界の生きとし生けるものを縁とするから、『他縁』という。羊の華や鹿の車にたとえられる声聞・縁覚に対するから、『大』の名がある。自己も他者も真実性に到達させるから、『乗』という。これはすぐれた人のふるまうところであり、菩薩の心すべきものである。」

 しかしこの境地も、空海に言わせればまだまだ低い段階にある。



7.覚心不生心

 第七住心 覚心不生心」の境位は、次のようである。

「がそのまま安らぎであるから、わけへだてがない。煩悩がとりもなおさずさとりであるから、煩悩を断ってさとりをえる労もない。」

 空海によれば、この境位はインドでは中観派、中国では三論宗に相当すると言う。



8.一道無為心

 一切を絶対空と見る中観派や三論宗の世界観を超え出ると、真実在の風光が展開する。そう空海は言う。

 それは『法華経』に描かれる世界であり、宗派でいえば、空海のライバルであった最澄が開いた天台宗の世界である。

 ではこの 一道無為心」の境位は、どのようなものなのか。それは、

「本性は虚空と同じであるから、自らの心がそのまま真実世界の心同じである、その本性が真実世界の心と同じであるから、それはそのままと同じである」

 と見る境位である。

 しかし空海に言わせれば、このような境位も未だ十分ではない。



9.極無自性心

 空海によれば、天台宗を超えるものが華厳宗である。華厳経は、実在と現象を相即不離にあると見、宇宙の一切が相関関係にあると説く。それはあたかも、帝釈天の網のようである。

「現象界の万有は、すべての個物と個物とが重々無礙であって、帝釈天の網(珠網)に喩えるとおりであり われわれには分からぬほどに、かすかに完全に融合しあっているさまは、燈の光が帝釈天の網の珠に映じて無限に光を投げあっているようである」

 空海は、この華厳の教えは、教理としては仏教最高のものであると言う。しかしそれでもなお、これは未だ理談、すなわち哲学的世界観であって、観照にとどまり実践にまですすんでいない。

 これを実践の境地にまで高めたものこそ、空海によれば真言密教である。



10.秘密荘厳心

「あらゆる徳のそれ自体の性が、わが心身にすっかり備わっている だから、現世で立派な仏となることができる」

 華厳が教えるように、宇宙の一切はつながり合っている。真言密教は、そうした真理をただ理解するだけでなく、この真理の中に、つまり曼荼羅の諸仏の世界の中に、自ら入り込むことを説くものである。

 いわゆる「即身成仏」の思想である。

 空海によれば、この境地こそが、人間の到達しうる最高境位である。これを空海は、「秘密金剛最勝真」と言う。

「『秘密金剛最勝真』というこの一句は、真言の教えが、もろもろの教えに超えて、極致にして真実であることを示すものである。」


(苫野一徳)

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