ハート『法の概念』

はじめに

  Herbert Lionel Adolphus Hart (1907–1992) by Steve Pyke, 1990 法理論の大家オースティンを批判し、一躍20世紀法理論のスタンダードに上り詰めたハートの主著。

 分析哲学の方法を用いて、法とは何か、緻密な概念分析を行った。法実証主義と言われる。

 分析哲学は20世紀哲学の一大潮流で、一時英米系哲学はほとんどが分析だったが、今ではずいぶんとすたれてしまった。実際、当時の分析哲学者たちの多くは、ほとんど意味のない言葉遊びをしていた、と言われても仕方ないような仕事しかしなかった。

 しかし一流の分析家であれば、ほとんど現象学本質観取に近いとさえ言えるほど、冴えた概念本質観取を時折見せてくれる。ハートの法概念分析も、私は中々見事なものだと考えている。

 ドゥウォーキンのページで見たように、彼はハートを厳しく批判した(ドゥウォーキン『権利論』のページ参照)。しかしその原理性、説得性において、私はハートの法理論に軍配が上がると思う。読み比べていただければ幸いだ。

 もっとも、道徳正義、などの比較概念分析などは、ちょっと些末な、非本質的な議論を展開している、と私は思う。ここのところ、やはり分析より本質観取のほうが優れた方法論だと思わざるを得ない。

 ともあれ、一次ルール二次ルールというハートが明らかにした法の構造は、今も法とは何かを考えるとき、ずいぶんと役に立つ本質的構造と言いうるだろう。


1.問題設定=法とは何か

 これまでの法理論を検討すると、3つの主要な論点がある。まずハートはそのように言う。

 1つはオースティンに代表される、法とは「威嚇による命令である」という論点。

 2つは、法とは「道徳」であるとする論点。

 しかしどちらも説得力にかける。そうハートは主張する。

 そして本書前半では、まず前者が批判されることになる。

 さしあたりハートは次のように言う。法とは「ルール体系」である、と。しかしここで、3つ目の論点が現れる。

「しかし、ルールとは何であるのか。ルールが存在すると言うことは何を意味するのだろうか。」

 本書はこの問いに答えるものだ。


2.オースティン理論の批判

 まずハートは、オースティン法理論を批判する。オースティンは、法とは為政者が威嚇によって強制的に命令するものである、と言う。これに対するオースティンの反論は,次の3つの論点からなる。

「まず第一に、強制的命令にもっとも近い刑罰法規でさえ、他人に向けられた命令の適用範囲とは異なった範囲をしばしばもっているのである。というのも、このような法は、他人に対してと同様、それを制定した人々に対しても義務を課しうるのであるから。第二に、他の制定法は一定の事柄をすべきだと人々に求めるのではなく、彼らに権能を与えるという点において命令と異なっている。それらは義務を課すのではなくて、法の強制的な枠組みのなかで、法的な権利、義務を自由につくり出すための便宜を与えている。第三に、制定法の制定は、いくつかの点で命令を下すことに類似してはいるものの、いくつかの法のルールは慣習から生まれ、その法的資格は、まったくそのような意識的な法定立行為によってはいない。」

 要するにこういうことだ。

①法の制定者みずからもその法に拘束される。
②法には強制だけでなく権限を与えるものもある。(裁判官への権限付与など)
③法は為政者の命令だけでなく慣習からも作られることがある。


3.第一次的ルールと第二次的ルール

 では法とは何なのか。ハートは言う。それは第一次的ルールprimary rules)と第二次的ルールsecondary rules)からなる、ルール体系のことである、と。

 第一次的ルールとは、何はともあれ現実に妥当性をもっている法のことだ。

 これは、酋長が治めている社会から現代社会にいたるまで、たいていの社会が持っている。

 しかし第一次的ルールだけで営まれる社会には、決定的な欠陥がある。そうハートは言う。それは、①何が法なのかいまいちよく分からない「不確定性」、②ルールを変えることが困難だという「静的性質」、そして③それゆえの「非効率性」である。

 この欠陥を補うために、第二次的ルールが導入される。

 第二次的ルールには大きく3つある。①承認のルール、②変更のルール、③裁判のルール

 中でも、承認のルールが最も根本的だ。

「これはいくつかの特徴を明確にし、あるルールがこうした特徴をもてば、それは集団が行使する社会的圧力によって支持される集団のルールであることが決定的にまた肯定的に示されるのである。このような承認のルールは非常に多種多様な形態をとって存在し、単純なものもあれば複雑なものもある。」

 要するに、あるルールがルール(法)であるかどうか、ちゃんと確認できるシステムが用意されていること。これが、現代の法の本質的な構造の1つなのだ。


4,内的視点と外的視点

 続いてハートは、少しややこしい話に踏み込んでいく。内的視点(陳述)外的視点(陳述)についてだ。

「外的視点の普通の表現は『……ということは法である』ではなく、『イギリスにおいて人々は、およそ議会における女王の制定するものが法であると認めている』である。これらの表現形式のうち第一のものを内的陳述internal statementと呼ぶことにしよう。なぜならそれは内的視点を表明するものであり、また承認のルールを容認しながらもそれが容認されている事実をのべずに、体系のある特定のルールが妥当すると認めるさいにそのルールを適用する人によって用いられるのが普通だからである。第二の表現形式を外的陳述external statementと呼ぶことにしよう。なぜならそれは、体系の承認のルールを自分では容認せずに他の人々がそれを容認している事実をのべる、体系の外的観察者の普通の言葉だからである。」

 このあたり、いかにも分析哲学の論法だ。

 要するに、外的陳述とは事実命題を述べたもの、内的陳述とは、「私」はそのように認めているのだ、という視点。そう考えればいい。

 そしてハートは、次のように言う。

「容認された承認のルールが、内的陳述のさいにこのように用いられることを理解するとともに、これをルールが容認されているという事実に関する外的陳述と注意深く区別するならば、法の『妥当性』の観念についての多くの曖昧さはなくなるのである。というのは、『妥当する』という言葉は、言明されていないが容認されている承認のルールを法体系の特定のルールに適用するまさにそのような内的陳述において、常にではないが頻繁に用いられるからである。あるルールが妥当すると言うことは、それが承認のルールのそなえているすべての審査を通ったものとして、したがってその体系のルールとして承認することである。」

 承認のルールを支えるのは内的陳述である、というのが、ハートの言いたいことだ。ルール(法)は事実として単にあるのではない。それを諸個人が内的に承認してはじめて、法と言いうるのだ。それゆえ承認のルールは「究極のルール」である、とハートは主張する。

「体系の他のルールの妥当性の評価基準を与えている承認のルールはわれわれが明らかにしようと試みる重要な意味をもっており、究極のルールthe ultimate ruleである。そして普通見られるように、いくつかの基準が相対的な従属と優越という順序に位置づけられているところではそのうちの一つが最高supremeなのである。」

 われわれの承認がルールを支えているという意味で、承認のルールはいわばメタルールであるわけだ。承認のルールは法を法をたらしめる究極の最終審級である、と言ってもよい。そしてこの承認に支えられた上で、できるだけ「よい」「最高の」具体的法を作っていく。それが法制定プロセスであるわけだ。


5.形式主義とルール懐疑主義の批判

 続いてハートは、形式主義ルール懐疑主義の批判を展開する。

 法は、常に絶対的に厳密なものではあり得ない。それは状況に応じて常に解釈される必要がある。これを法の「開かれた構造」という。

 形式主義は、このことに気づかず(あるいは無視して)、法を絶対的に固定した「概念の王国」にしようとする立場のことだ。

「これが達成されるのは、一般的用語が、一つのルールに関するすべての適用においてだけでなく、その法体系中のいかなるルールに用いられるときでも、同一の意味を与えられる場合である。」

 しかしそれは絶対不可能だ。ハートはそのように言って、形式主義を批判する。

 一方のルール懐疑主義は、いわば形式主義の正反対。法なんて結局何の根拠も厳密さもないものだ、と開き直る立場のことだ。相対主義者と言ってよいだろう。しかしハートはこれを、次のように言って揶揄的に批判する。なかなか面白いので、少し長いが引用しよう。

「ルール懐疑主義者は、ときには失望した絶対論者である。彼はルールというものが形式主義者の天国、すなわち人々が神のように事実のあらゆる可能な結合を予期できるので開かれた構造がルールの必然的特徴となっていないような世界で、見られるようなものではないことを発見していた。ルールが存在するというのはどういうことかについての懐疑主義者の考えは、このように到達しえない理想であるかもしれないし、ルールと呼ばれるものによってその理想が達成されないことを見い出すとき、彼はおよそルールが存在する、または存在しうるということを否定することにより、彼の失望を表明するのである。」

 現代の相対主義者たちに、聞かせたい言葉だと思う。

 ハートは中々バランスに富んだ人だ。形式主義もルール懐疑主義も、どちらも極端すぎる。よい考えはその中間にある。彼はそのように主張する。

「形式主義とルール懐疑主義とは、法理論にとって前門の虎、後門の狼である。それらはたいへんな誇張であって、相互に誤りを正し合う場合には有益であるし、真理は両者の中間に存在しているのである。」


6.法と道徳の異同

 冒頭で、法は道徳であるとする主張をハートは批判したと述べた。ここへ来て、ようやく彼は法と道徳の異同について論じる。

 確かに法と道徳は、次の3つの点で類似している。

①同意と関係のない拘束力がある
②当然のことと見なされる
③人生を通して私たちにかかわってくる

 ほんとうにそうかな、と思わないところもないではないが次へ進もう。

 しかし法と道徳は、次の4つの点で異なっている。ハートは続ける。

①道徳のほうが重要だと思われている
②法は意図的に変更されるが、道徳はそうではない
③道徳はその侵犯を内的に反省させるが、法は必ずしもそういうわけではない
④法は外的な威圧として存在しうるが、道徳は内的な強制力をもっている

 以上も、ほんとうにそうかな、と思わないところがないではない。典型的な分析哲学の論述方法で、何となく人を煙にまくというか、いまいち核心に迫ってこないような印象がある。

 しかしいずれにせよ、ハートは以上のように、法と道徳を同一視してはならないと主張する。その結論自体は、きわめて妥当なものだと思う。そしてこのように、法と道徳を同一視しない法理論を、ハートは法実証主義と呼ぶ。

「ここでは法実証主義を、法が道徳の一定の要求を再現もしくは充足するということは、事実上しばしばそうであったとしても、決して必然的な真理ではないという単純な主張を意味するものと考えておこう。」

 ところどころ説得力が足りないところや、後にハーバーマス『事実性と妥当性』で指摘する弱点(承認のルールを公的機関に限定しすぎており、より広い公共圏が考慮されていない、という点)もあるものの、私は、本書を現代法理論の基礎とすることには賛成だ。

(苫野一徳)

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